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「大倉喜八郎の旺盛な企業家精神」

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日時:4月16日
場所:国際文化会館404号室

4月歴史部会は、東京経済大学名誉教授、大倉文化財団理事長の村上敏彦氏をお招きして『大倉喜八郎の旺盛な企業家精神』のお話を伺った。参加者:22名。

城山三郎に「野生の人びと」と松永安左衛門と並び称された大倉喜八郎は、越後・新発田の商人の子に生まれ、丹羽伯弘に知行合一の陽明学を学び、18歳で単身江戸に出て、丁稚奉公から始め、幕末に鉄砲商として起業する。民間人初の欧米視察で岩倉使節団と現地で交流し帰国後、日本国内での「居貿易」から「出貿易」の時代と見て、いち早くロンドン支店を設置し、薩長土肥関係商人に対抗して自立する。

渋沢栄一を生涯の盟友として東京商法会議所設立に参画、商法の近代化に努める一方で、貿易協会や大倉商業学校を設立。中国・朝鮮・ペルシャ・トルコ・インド貿易の先駆者となる。東京電燈、東京電力、銀座にアーク灯点灯、サッポロビール、帝国ホテル、ホテル・オークラ、帝国劇場、土木建設(大成建設、鉄道、地下鉄、鹿鳴館、歌舞伎座)、製材(秋田木材)・製紙(特種東海製紙)、製靴(リーガル)、製革(ニッピ)、日清オイリオ、浅草パノラマ館や数々の国内外鉄道事業で大倉財閥の基礎を築く。特に中国では製鉄所など、日本初の対中投資に踏み切り、中国同盟会結成大会に大倉邸を提供、辛亥革命に関わり孫文らと交わる。

自助、努力、誠意がモットー。株、相場、銀行はやらぬ主義が災いして、財閥解体後の戦後の財閥復活がならなかった。90歳で山登り、14歳からの狂歌、一中節、本阿弥光悦流の書、大倉集古館など、仕事は西洋近代風、趣味は江戸情緒的、前近代・アジア風で陽気で洒脱な人柄。振る舞いは派手で陽徳。石門心学の商人道で資本の論理と倫理・道徳のバランスを保つ。責任と信用。「言葉の命を重んじる」「信用なきは首なき人と同様なり」は、今の政治家、企業家、役人に聞かせたい言葉。やはり、近代の巨人であった。(文責:小野博正)

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