青山霊園 墓マイラー資料 2022/12/1
〔名前(読み)生没年 出身 出発時年齢 使節団での役職〕一ひとこと人物評
没年齢 墓地所在地番
本隊
1・大久保利通(おおくぼ としみち)1830--1878 薩摩 42歳 副使・大蔵卿
維新の三傑 不評を恐れず沈思黙考して明治国家の基礎を築く 大久保利世の長男 一蔵 西郷隆盛と共に島津斉彬に取り立てられる 斉彬死後、島津久光に認められ藩政、国政に関与 倒幕、大政奉還に寄与 外遊帰国後は内務省を主導して富国強兵策をとる 佐賀の乱、西南戦争、台湾出兵では仮借ない態度で臨む 創業内治に努めた人 暗殺死
48 1種イ第2号15-19側1番
2・山口尚芳(やまぐち なおよし)1839-1894 佐賀 33歳 副使・外務少輔
岩倉使節団副使4名の中で、唯一人、全行程を岩倉大使と行動を共にする 山口尚澄の子 範蔵 長崎で蘭学・英語を学ぶ 大隈重信に代わり佐賀藩を代表参加する。従者に息子・俊太郎(9歳)を伴う 帰国後は元老院議官・幹事、高等法院陪席裁判官、会計監査院初代院長、貴族院議員を歴任 墓分骨 55 1種イ第1号2-3
3・田邊太一(たなべ たいち)1831-1915 幕臣 41歳 一等書記官・外務少丞
三回の洋行経験があって岩倉使節団の一等書記官長 幕臣・新政府官僚・晩年の自由人の三代を自在に生きた達人 帰国後は清国臨時公使、元老院議官、勅撰貴族院議員を歴任 晩年は詩文、書に親しみ、福地源一郎らと歌舞伎、落語界などに遊ぶ
琵琶湖疎水設計の田邊朔郎は甥、長女は三宅花圃で歌人、小説家、三宅雪嶺の妻
84 1種ロ第8号16-17
4・林董三郎(はやし とうさぶろう)1850-1913 幕臣 22歳 二等書記官・外務七等
日英同盟締結に尽力し、日露戦争を優位に導く 日本初の大使 佐倉藩医・佐藤泰然の五男 董 幕府御典医・林洞海の養子に ヘボン塾で英語を学ぶ 幕府英国留学生 戊申戦争では五稜郭に籠る 英語の才で、新政府に登用出仕 帰国後は伊藤博文傘下の工務省で活躍 香川県知事、兵庫県知事、清国公使、欧州各国公使、通信大臣など歴任 63 1種ロ第8号1-14(現存せず)
5・肥田為良(ひだ ためよし)1830-1889
幕臣 42歳 工部省理事官・造船・製作頭 咸臨丸の機関長 日本造船の父 伊豆の医師・肥田春安の五男 浜五郎 江川英龍の手代修業 長崎海軍伝習所の後、咸臨丸の機関方で渡米 幕府の翔鶴丸・富士山丸艦長 阿蘭陀で造船所資材調達 使節団では造船、港湾、鉱業調査 帰国後横須賀造船所完成に努む 機関総監 海軍機技総監 宮内省御料局長官 皇室財産 華族銀行 日本鉄道に尽力 59 1種ロ第10号21
6・佐々木高行(ささき たかゆき)1830--1910 高知 42歳
司法省理事官司法大輔 明治維新の知られざる実力者 坂本龍馬と大政奉還を建白 土佐藩士・佐々木高順の次男 武市半平太と尊王攘夷党で活躍 龍馬亡き後海援隊を率いる 新政府で参議 侍補に 帰国後は宮中、元老院を舞台に「天皇親政運動」を展開 工部卿 宮中顧問官 枢密顧問官 大正天皇と皇孫養育主任 皇典講究所所長 侯爵 『保古飛呂比』(日記) 80 1種イ第21号8側8-9
7・長与専斎(ながよ せんさい)1838-1902 長崎 34歳
文部理事随行・文部中教授 西洋医学への道の先駆をなし医療福祉・公衆衛生と『医政76カ条』制定 肥前大村藩医・長与俊達の養子長与中庵の子 緒方洪庵の適塾で塾頭 ポンぺ、ボードウイン、マンスフェルトに師事 帰国後 文部省医務局長 東京医学校校長を兼務 東京司薬場創設 内務省衛生局初代局長 元老院議官 貴族院議員 宮中顧問官 中央衛生会長 64 1種イ第13号2
8・森有礼(もり ありのり)1847-1889 鹿児島 駐米少弁務使
開化派の急先鋒 後に保守化 日本語廃止論者 初代文部大臣 森喜右衛門の五男
藩の英学校に学ぶ 薩摩藩英国留学 オリファントとアメリカに渡る 明治元年帰国、三年に駐米弁務使 一橋大学の前身(商法講習所)創設。契約結婚。一夫一婦制、良妻賢母論。岩倉具視の娘・寛子と再婚。駐清公使、外務大輔、駐英公使、初代文部大臣、大日本帝国憲法発布の日に国粋主義者・西野文太郎に切りつけられる。英語国語化論者。
52 1種イ第1号11-12側2番
9・吉原重俊(よしはら しげとし)1845―1887 鹿児島 27歳 外務三等書記官
薩摩藩米国留学生の一人 日本人最初のイエール大学入学 日銀初代総裁 薩摩藩士の子 藩主の句読師助 大山巌・西郷従道と英艦隊へ切込み未遂 武田斐三郎に洋学 ブラウンに英語を学ぶ 使節団には米国で参加 帰国後外務省一等書記官から大蔵省へ転身 租税助 横浜税関長 大蔵省租税・関税局長 横浜正金銀行 日銀総裁現職死
42 1種イ第4号3-5側1番
10・畠山義成(はたけやま よしなり)1842-1876 薩摩 29歳 外務三等書記官
薩摩藩第一次英国留学生(変名:杉浦弘蔵) 回覧実記公式記録員 東京開成学校校長 英国で学び、ローレンス・オリファントと渡米、ラトガース大学入学 大山巌観戦団に随行欧州へ 使節団に米国から合流 回覧通訳となり、帰国後は開成学校、外国語学校校長、宮内庁御用掛、書籍館、博物館館長歴任、フィラデルフィア万博帰途に船上客死
1種ロ第16号1番 (二階堂家に移した)
11・何 礼之(が のりゆき)1840-1923 幕臣 32歳
一等書記官・外務六等出仕 唐通事から英学に華麗に転じて維新の人材を多数育てる 代々唐通事・何栄三郎の長男 英米人から英語を学ぶ ロシア対馬占拠事件から幕臣に 私塾で英語塾塾生百数十名 使節団では米国から木戸と随行調査 共に帰国 帰国後駅逓寮 内務省 翻訳課長 図書局長 元老院議官 高等法院予備裁判官 貴族院議員など歴任 著作・翻訳多数 83 1種イ第3号4側17番
12・長野桂次郎(ながの けいじろう)1843-1917
幕臣 29歳 二等書記外務七等 幕末の遣米使節団でトミーの名で名声を博したが、帰国後は不遇だった 幕臣・小花和度正の次男 豪農の養子で横尾為八に 再養子で米田為八、再々養子で立石斧次郎を名乗る、維新後6度目の改名で長野桂次郎となる 英語を立石得十郎、森山多吉郎、マクドナルド、ハリス、ヒュースケンらに学ぶ 佐々木高行随行帰国後通詞を転々 疎んじられた74 1種ロ第6号6
13・吉田清成(よしだ きよなり)1845-1891 鹿児島 使節団と海外で接触
薩摩藩第一次英国留学生 初の外債発行に成功 対米条約改定交渉に功績 薩摩藩士吉田源左衛門の四男。ロンドン大学で航海学。オリファントと米国ハリス教団へ。ラトガース大学入学中退。ウイルブラハム・アカデミーで政治経済学、NYで銀行保険業務実体験。英国で外債発行成功後、駐米公使。グラントと帰国。初代農商務次官 47 病死 1種ロ第15号5
14・河野敏鎌(こうの とがま)1844―1895 高知 28歳
司法省後発隊・司法少丞 儒教的君臣国家を目指した明治期初期の政治家 土佐藩郷士・河野道好の長男 安井息軒に学ぶ 土佐勤王党で活躍 江藤司法卿理事随行で後発を率いる 帰国後司法大丞 西南戦争臨時裁判所裁判長 元老院副議長 文部卿で国家主義に 初代農商務卿 枢密院顧問 内務大臣 司法大臣 農商務大臣 文部大臣等歴任 子爵 勲一等
51 1種イ第11号10-11
15・中江篤助(なかえ・とくすけ)1847~1901 高知 25歳 留学生
韜晦、逆説、風刺、めくらましのプリズム人生,君民共治主義者 中江兆民 足軽身分から、藩校・文武館入門。藩留学生で長崎でフランス語を学び、駐日フランス公使・ロッシュの通訳、福地源一郎・日新社塾頭、大学南校助教から使節団へ。フランスで学び帰国後、仏蘭西学舎を開き、民権論など講ず。東京外国語学校校長を経て、自由民権運動の新聞、出版などに関わる。主著:『三酔人経綸問答』『一年有半』等。54 1種イ第1号24側6番
16・名村泰蔵(なむら たいぞう)1840―1907 長崎 32歳 司法省後発・司法七等出仕
仏人ボアソナード招聘とその民法思想導入に多大な貢献長崎・島村義兵衛の子 蘭語通詞・名村八衛門の養子 仏語・独語・英語学ぶ 徳川昭武遣仏使節の先遣役 ボアソナード同伴帰国 以降ボ氏の著作多数翻訳 太政官少書記官 司法大書記官 大審院検事長 大審院長心得 貴族院議員 退官後東京活版製造所社長 鉄道・建物会社社長
1種イ第11号10-11側1番
17・岸良兼養(きしら かねやす)1837―1883 鹿児島 35歳 司法省後発・権中判事
初代大検事(今の検事総長)且つ第二代大審院長 薩摩藩士・岸良兼善の長男長崎で何礼之の英語塾で学ぶ 新政府では一貫して司法畑を歩む 帰国後河野敏鎌と共に嘗ての上司で司法省使節団団長(実際は都合で参加しなかったが)の江藤新平断罪処刑裁判に加わる 大検事 大審院長を経て 司法少輔兼元老院議官のまま現職で死去 1種イ第1号8
18・中野健明(なかの たけあき)1844―1898 佐賀 28歳
司法理事随行・権中判事 明治の外交官 大蔵官僚 のち長崎・神奈川県知事 佐賀藩士・中野中太夫の次男 長崎でフルッベキに英語を学ぶ 新政府で大学校中助教兼第寮長から外務少丞で条約改正案作成 帰国後外務省一等書記官 駐オランダ公使館 その後大蔵大書記官 関税局長 主税局長 長崎・神奈川県知事を歴任 多彩な能力があったようだ。
54 1種イ第5号13-14
19・高崎豊麿(たかさき とよまろ)1839―1912 鹿児島 36歳 左院後発
少議官 幕末の志士 作詞家 桂園派歌人 御歌所初代所長 薩摩藩士・高崎温恭の長男 正風 倒幕派に反対し土佐・後藤象二郎ら平和的大政奉還に与す 帰国後は左院が江藤と共に無くなっており宮中侍従番長 御歌掛 薩摩藩士で桂園派の八田知紀に和歌を習う 天皇の寵愛で終生御歌所長 初代国学院院長 枢密院顧問官 勲一等旭日大綬章 73
2種イ第17号1-6
20・鮫島尚信(さめじま ひさのぶ)1845-1880 鹿児島 駐欧弁務使
日本外交官第一号 欧州での日本外交の確立に尽力して客死 薩摩藩医の子。長崎で蘭学を瓜生寅に英語を学び、薩摩藩英国留学生に。ロンドン大学で法学を一年学ぶ。米国でハリス結社で働く。明治元年外国官権判事から、駐欧全権公使として岩倉使節団の欧州回覧の先導役を果たす。ボアソナード、ブスケなど法制お雇い外国人を発掘。国際東洋学者会議を主宰。明治7年帰国外務大輔となり、明治11年妻同伴で駐仏全権公使として赴任するが、35歳パリで客死。35 1種イ第2号21
21・永井繁(ながい・しげ)1862-1928 静岡 9歳 留学生
日本音楽教育の草分け。瓜生外吉(のちの海軍大将、男爵)と結婚 佐渡奉行属役・益田鷹之助の四女。兄・益田孝。幕府医師・永井玄栄の養女となる。五名の女子留学生で渡米、アボット家に寄宿し、NYヴァッサー大学音楽科を卒業して、一〇年後に帰国。帰国後、留学中に知り合った瓜生と結婚。明治一五年、文部省音楽取調掛に採用されから、明治三五年に辞職するまで一貫して近代音楽教育を担う。66 1種イ第23号6側
22・白峰駿馬(しらみね しゅんめ)1847-1909 長岡
長岡藩 鵜殿瀬左衛門の三男、鵜殿豊之進、勝海舟の門下となり、神戸海軍操練所で坂本龍馬に会い、亀山社中に参画 海援隊で太極丸の船将 菅野覚兵衛(妻は、龍馬の妻・お龍の妹)とラトガース大学で造船学を学ぶ 明治11年白峰造船所創設 62 1種ロ第5号8
23・牧野伸熊(まきの・のぶくま)1861~1945 鹿児島 11歳 留学生
昭和天皇の信頼篤き、オールド・リベラリスト。伯爵。牧野伸顕(のぶあき)は大久保利通の次男に生まれ、生後すぐに牧野吉之丞の養子となる。養父死去後は大久保家で育ち,兄と共にアメリカに留学し、帰国後東京帝国大学中退し外務省入省。以降一貫して各国公使や政治の中枢にあって、特に西園寺公望、近衛文麿、吉田茂の薫陶を受け、宮内大臣、内大臣として天皇の側近にあって重きをなす。84 1種ロ第12号
24・黒田長知(くろだ ながとも)1839-1902 福岡 34歳 随行留学生
伊勢津藩主・藤堂高猷の次男。福岡藩主・黒田家養嗣子となり藩主に。金子堅太郎・団琢磨を随行に、英国留学ケンブリッジで学ぶ 家督は長男に早くから譲り、隠遁して書、文学、絵、囲碁、能など人生を楽しむ 63 1種イ第4号13-17側1番
25・黒田清隆(くろだ きよたか)1840-1900 鹿児島 開拓使次官
北海道開拓に貢献、使節団女子留学生派遣の発起人 第二代総理大臣 元老
薩摩藩士 黒田仲左衛門清行の長男 生麦事件随行 薩英戦争参加 薩長同盟では西郷と桂の仲立ち。榎本武揚の助命嘆願(娘と榎本の息子結婚) 米農務長官・ケプロンをスカウト 大日本帝国憲法発布時の首相 酒乱で妻殺害? 60 1種イ第1号9
26・鍋島直大(なべしま・なおひろ)1846~1921 佐賀 26歳 留学生
最後の佐賀藩藩主 明治・大正天皇の側近となり新政府に貢献 鍋島直正(閑叟)の次男。一八六一年に佐賀藩主に。殖産興業をすすめパリ万博に有田焼を出品。明治四年一月、私費留学のため横浜まで来て、父閑叟の死の報で中断、使節団随行で実現。従者に田中永昌、松村文亮、百武兼行。オックスフォード大学で文学専攻。佐賀の乱で一旦帰国するが、妻と再渡欧。プリンス・ナベシマと社交界で名声を博す。帰国後鹿鳴館舞踏1種イ第4号7-12
27・佐野常民(さの つねたみ)1823-1902 佐賀 ウイーン万博副総裁 公使
佐賀七賢人のひとり 近代国家のパイオニア 日本赤十字社初代社長適塾で学ぶ
長崎海軍伝習所に佐賀藩士48名を引き連れ、のち三重津海軍所の総監督で技術の佐賀藩を引張る 田中久重(からくり儀左衛門)スカウト 元老院議長4年 農商務大臣中央衛生会会長 日本美術協会創設 1種イ第5号26
28・金子堅太郎(かねこ・けんたろう)1853~1942 福岡 19歳 留学生
生涯日米の友好のために尽くした初代日米協会会長 憲法の番人。福岡藩士・金子清蔵直道の長男。藩主・黒田長知の随行で、団琢磨と米国留学生となり、ハーバード大学を卒業。のち同大学OBセオドア・ルーズベルトの知遇があり日露戦争の収拾にむけた広報外交に尽力する。帰国後、民権運動にも関わるが、官僚として頭角を現し、大日本帝国憲法や諸法典の起草に関わる。日本法津学校(日本大学前身)初代校長。伊藤内閣の農商務大臣、司法大臣歴任。明治天皇紀・維新史・帝室などの編纂局総裁で活躍。89 1種ロ第7号5
29・津田 仙(つだ せん)1838-1908 佐倉 佐倉藩士小島良親の四男。
農学者 キリスト教徒 雑誌「学農社」創設 日本初の通信販売 津田梅の父藩校で蘭学・英語・洋学・砲術を学ぶ。藩命で蕃書調所や手塚律蔵私塾で、新島襄、桂小五郎らと学ぶ。福地源一郎、森山栄之助、マクドナルドに英語を学ぶ。ぺリーとの通訳。津田初と結婚・婿養子に。幕府外遊通訳二回 共立学舎創設 ウイーン万博随行通訳 70 1種ロ第8号39
30・松方正義(まつかた まさよし)1835-1924 鹿児島 島津久光側近
大隈重信を引き継いで、参議大蔵卿として、松方デフレ財政を主導 第四代、第六代内閣総理大臣 元老 日銀創設、 日本赤十字社社長 独逸学会名誉会員 89 1種ロ第17号1側
31・山川健次郎(やまかわ けんじろう)1854--1931 会津
会津藩家老 山川重固の次男 白虎隊所属 東京帝国大学総長 九州帝国大学初代総長 京都帝国大学総長 米国留学(イエール大学) 兄・山川浩、妹・大山捨松
男爵 貴族院議員、枢密院顧問官 76 1種ロ第18号5
32・尾崎三良(おざき さぶろう)1842-1918 京都 留学生
三条実美の家人 龍馬の「新官制議定書」草案起草 国際結婚 男爵 仁和寺尾崎陸奥介の三男。烏丸家、冷泉家をへて三条の家人へ。七卿落ちに随行。西郷隆盛、坂本龍馬、岩倉具視、陸奥宗光と親交。維新後、英国オックスフォード大聴講生の時、使節団が米国で条約交渉を始めたと聞き、諫めに渡米。英国ウイリアム・ウイルソンの娘・バサイアと明治2年結婚三女を儲けたが帰国時離婚(娘テオドラは後、尾崎行雄の後妻でその娘は相馬雪香)。法制や大日本帝国憲法審議に参画。新聞紙/保安条例起草 76 1種イ第4号22-24側2番甲
33大村純煕(おおむら すみひろ)1830-1882 大村 41歳 留学生
肥前大村藩藩主の子 第12代大村藩主 薩長と倒幕藩として戊辰戦争に出兵 大村藩知事 52 1種イ第4号27
34・南 貞助(みなみ ていすけ)1847-1915 山口 外国銀行員
国際結婚第一号(明治5年、ライザ・ビットマンと同伴帰国10年後離婚) 岩倉使節団の外貨を預かるも銀行が破産 高杉晋作の従弟 オールコックの秘書 ローレンス・オリファントの斡旋で、法律学校で学ぶ 香港領事、農務省次長など伊藤博文や井上馨の庇護を受ける。68 1種イ第3号5番
35・渡 正元
1種ロ第8号16-17側13番
36・グイド・フルベッキ 1830-1898 大学南校教師
岩倉使節団の企画(ブリーフ・スケッチ)の宣教師 政府顧問オランダのプロテスタンと オランダ語、英語、ドイツ語、フランス語を話し、1859年ブラウンと来日。幕府長崎英語伝習所(済美館)佐賀藩・致遠館で英語を教える 大隈重信、副島種臣、何礼之、岩倉の子息らを教える。グリフィス、モルレーの招致に一役。一旦帰国するが、再来日、明治学院創設に関わり、日本で死去。68 外人墓地南1種イ6
37・エドアルト・キヨッソーネ 1832--1898 イタリア版画家 お雇い外国人
大蔵省で紙幣・郵便切手・証券・国債などデザイン原版や版画技術による肖像画を伝える 明治天皇 西郷隆盛などの肖像画 ドイツ・フランクフルトのドンドルフ・ナウマン社(明治通宝の印刷所)で働く(1868)のが縁。浮世絵、日本工芸品コレクター。生涯独身で麹町自宅で逝去 66 外人墓地南1種イ6
38・ジョセフ・ヒコ 1837--1897 兵庫 浜田彦蔵
漂流民としてオークランド号に助けられ米国・SFで教育を受ける。帰国を企てるが入国できず。アメ彦(米国籍)で帰国。アメリカで三代の大統領と会見(フランクリン・ピアース、ジェームズ・ブチャナン、イブラハム・リンカーン)通訳(ペリー)、新聞の父(『海外新聞』発行)、貿易商。大坂造幣局創設、国立銀行条例に参画。61 外人墓地南1種イ4
39・松野クララ 松野間(ハザマ1847-1908ー日本近代林業の父)の妻
クララ・ジッテルマン ドイツ人 明治9年来日結婚、日本師範学校の英語教師 師範学校附属幼稚園で教え、ピアノ指導に当たる 三条実美邸でピアノを教える 外人墓地
40・副島種臣(そえじま たねおみ)1828-1905 佐賀 外務卿
明治初年の『政体書』を起草 能書家・詩文にも優れる。佐賀藩士・枝吉南濠の次男、兄・国学者・枝吉神陽の命で、大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一建言書を渡す。明治二年参議、明治4年外務卿、マリア・ルス号事件で中国人奴隷解放。日清就航条約批准。明治6年政変で下野、民撰院建白書に同調するが民権運動には加わらず。宮内省一等侍講 伯爵 枢密院副議長 宮内顧問官。松方内閣内務大臣 77 1種イ第21号1