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出版記念講演会『岩倉具視の実像―最新の研究を踏まえて』

日時:2019.2.14  18:30~19:50
場所:日比谷図書文化館4F

『岩倉使節団の群像』出版記念パーティに先立ち、『岩倉具視―幕末維新期の調停者』(日本史リブレット人)の著書のある國學院大學法学部教授・坂本一登氏による記念講演会が、会場満席の60余名の参加者を得て、盛会裡に開催された。下記はその講演要旨である。

岩倉具視の研究は、戦前の徳富蘇峰の維新三傑として『岩倉伝』と、戦後は大久保利謙氏の先行研究があるが、幕末が中心で明治以降の研究は意外に少ない。天皇中心の列強対抗国家を創った人と思われ、人気が薄くなったようだ。

岩倉の人生は、下級公家・堀河家出身で、やはり下級公家の岩倉家養子となり、ペリー来航の1853年に鷹司政通の歌道の弟子となったのが29歳の遅いデビュー(人生五十年時代)。34歳、佐幕派公家に反対する88人列参を主導し、孝明天皇の近習となり、和宮降嫁の行列団長となる早い出世。四奸二嬪の排斥運動による岩倉村蟄居(5年間)の長い隠棲で特徴づけられる。

王政復古の小御所会議当日に、やっと公職復帰した。その会議で慶喜不在に怒る山内容堂を一喝したとの神話があるが、資料に乏しい。明治6年の政変で、岩倉の変節をよく言われるが、若いときの『神州万歳堅策』で、外遊して西洋文明(敵)を知るべきだと述べており、岩倉使節団は彼の本来の考えと言える。岩倉使節団の意義は、旅での共通体験がその後の政権を担う諸士と共通のイメージを得たことが大きい。

西洋化漸進主義と天皇中心国家構想であろう。主役の居ない政府内で、節目節目で調停役としての正しい行動をした人と言える。鉄道インフラの重要性。時代に取り残されかねない、士族や華族への保護制度化に尽力。明治14年の政変に際し、木戸、大久保、西郷亡き後の政権に、伊藤博文を中心に考え、病気で京都に療養中も憲法調査に欧州に送り出した憲法の行く末に心を残しながら、59歳、癌でなくなった。

読み切れないほどの数々の建言書を残した人である。革命の後はそれを維持することが大切で、それに精神誠意腐心した人。

参加者との質問応答では、
①朝鮮半島政策は、井上毅の朝鮮中立化政策に近いこと
②大隈・岩倉の間に使節団派遣に対する確執は特に見当たらないこと
③孝明天皇暗殺嫌疑には、恐らく直接にはなかったこと
④実記に記述の久米の所感は、岩倉の考えをどれだけ反映しているかには、不明と
⑤岩倉具視には、先生の思うよりカリスマ性が高かったはずと信じる等の意見交換があった。

(文責:小野博正)

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