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使節団が外国で会った日本人

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日時:2021年10月26日(火)10:00~12:30
場所:ZOOMに依るオンライン開催

内容:1.吉田清成 薩摩藩(担当:村井智恵)
弘化2年2月14日(1845年3月21日)〜明治24(1891)年8月
岩倉使節には後発の大蔵理事官としてアメリカにやってくる。薩摩藩士吉田源左衛門の四男。吉田巳之次、通称は太郎。留学時の名前は永井五百介、洗礼名はジョン・ウェスリー(John Wesley)。新政府要人の多い薩摩藩の三方限(さんぽうぎり= 上之園、高麗、上荒田)の上之園町出身。妻は貞(貞子)といい、安政3年8月(1856年9月頃)東京生れで志村知常(明治5年の製鉄寮名簿で「製鉄大属、神奈川県人」とある)二女。

明治20年5月華族、子爵授与。
元治元年(1864)に開設された薩摩藩洋学校・開成所で蘭学英学を学び、同2年の留学生としてイギリスに密航留学する。ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドンで約2年就学したが、藩からの費用獲得が難しくなったことから、前年に鮫島尚信と訪問していたアメリカのトーマス・レイク・ハリスの教団に参加した。畠山義成、松村淳蔵、長澤鼎、森有礼、鮫島尚信が同行した。しかし、新興宗教リーダーだったハリスの教義への疑問等から同教団を離脱。畠山義成、松村淳蔵と共にNJ州ニューブランズウィックのラトガース大学で1868年秋から復学を果たした。

ラトガース大留学中の1868年11月、ニューブランズウィックのセント・ジェームス・メソディスト教会で受洗。その後も資金繰りに苦しんだこともあり、ラトガースを離れ、別の留学生グループがいたモンソン、またはウィルブラハム・アカデミー等に転出の意思があったらしく、エール大学への入学も考えていたとみられるがラトガース以外の在学の記録は未確認。

1870年8月、イギリスでの鉄道関連の交渉のために上野景範がアメリカに立ち寄る。上野は留学生たちに支給する学費を携え、その管理役として300ドルの手当てで吉田を雇おうとしていたことが公文書からわかるが、実際には吉田は上野に同行してアメリカを離れてしまう。同様の公文書ではその役を吉原重俊が担ったとあるが、吉原は上野を追うようにやって来た大山巌、品川弥二郎、中浜万次郎のグループに同行してこちらもアメリカを離れてしまうため、公文書の記録が後追いになって間に合っていない。実質的にこの役を務めたのはその後もアメリカに残った畠山だった。

イギリスに渡った吉田は「イギリスに留学した」と記録されていることがあるが、時期と期間的に留学はできない。むしろ、そこから帰国して明治4年2月に大蔵省に入り、5月に少丞、7月に租税権頭、10月に少輔と、格段の出世をしているところを見ても、大蔵省関係で活躍したものと考えられる。

大蔵省ではアメリカ人大蔵省顧問・ジョージ・ウィリアムスと共に主に租税関連を担当していたが、外債募集のため、二人はアメリカに渡った。アメリカでは特に森有礼から外債募集を猛反対され、また日本で実質的な大蔵省責任者であった井上馨が秘密の外債募集情報をもらすなどあり、アメリカでの募集は諦めたが、イギリスで募集を行った。このときにジェイコブ・シフにも関係した。

1874年11月、特命全権公使および1876年のフィラデルフィア万博の御用掛として再度渡米。1878年には吉田・エバーツ条約と呼ばれる条約改正を締結し、アメリカ議会で批准されるが、ほかの条約国の賛成を条件としており、英仏独は反対したため発効されなかった。1879年には元大統領のグラントが来日したため、一時日本に帰国してその接待を務め、日光や箱根に同行した。

明治15年、帰国し外務大輔となり、外務卿留守時には代理卿を務めた。その後、議定官、農商務大輔、元老院議官、枢密顧問官などを歴任、子爵となったが、明治24年、 46才で死去。長男清風は貴族院子爵議員、次男は井上良智男爵(アナポリス卒、海軍中将)の養子となって海軍軍人(大佐)、貴族院議員となり、男爵を継いだ。

多くの書類が残っており、そのうちの多くが「吉田清成関係文書」として出版されている。

参考資料
吉田清成履歴(国立公文書館アーカイブ)
「薩摩藩留学生イギリス派遣に関する石河確太郎上申書の解析
機械紡績・会社制度導入との関連において」長谷川洋史
上野景範日記、仁礼景範日記、杉浦弘蔵ノート、杉浦弘蔵メモ(犬塚孝明)
日本外交文書第11巻 条約改正に関する件(外務省外交資料館アーカイブ)
フェリス書簡(ジュリー米岡氏の記録より)
「七分利付外債における井上馨の方針」半田英俊

写真:ラトガース大学グリフィスコレクション蔵

2.鮫島尚信(さめじま ひさのぶ)1845‐1880 鹿児島 駐欧弁務使
(担当:小野博正)

 日本外交官第一号 欧州での日本外交の確立に尽くして客死
鹿児島城下の薩摩藩医・鮫島淳愿の子として生まれる。15歳で蘭学を学び、文久元年(1861)に藩命で蘭医研究生として長崎に学び、医学の他、瓜生寅が主宰の英学塾培社で英語を学ぶ。元治元年(1864)に設立された藩立洋学校「開成所」で訓導を務める。この時長崎培社の実質的な運営者の前島密を英語教師に招いている。慶応元年(1865)薩摩藩の留学生として、五代友厚や森有礼ら15名の留学生として渡英して、ロンドン大学法文学部で約一年間学ぶ。慶応3年(1867)森有礼、長沢鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵ら6名で渡米し、トマス・レイク・ハリスの結社に入りブドウ園などで働くが、王政復古を聞き、ハリスに日本で働くことを薦められ森と共に帰国する。明治元年10月徴士・外国官権判事に任官し、その後東京府判事、東京府権大参事、東京府大参事を経て、明治3年外務大丞、欧州差遣、小弁務使を経て明治4年ロンドンに着任する。明治5年,中弁務使となりパリに着任して、弁理公使、特命全権公使に昇進し、英独も兼務した。然し、当初は特に英国で青二才扱いされたようで日本政府から、英独仏に対し、第四等外交官と遇するよう要請している。パリで、後に共著で『外国交法案内」(Diplomatic Guide)を出すことになる英国人秘書フレデリック・マーシャルを雇い、情報収集、人間関係の構築、外交実務の研究などで外交を国際水準に引き上げる努力をした。岩倉使節団が欧州各国を順調に回覧できたのも、鮫島の予めの便宜供与や調査協力への外交努力と各国の外交慣習や儀礼の研究に負うところが大きい。その他にも、留学生の調査監督指導、在留日本人、渡航者たちへの世話や、お雇い外国人との契約などでも活躍した。20年間日本で近代諸法典の指導に当たったボアソナードや4年間日本で法律顧問・法学教師を務め、日本への近代法移植に貢献したジョルジュ・イレール・ブスケを契約・招致したのも鮫島である。明治6年、国際東洋学者会議を主宰して挨拶「今日は欧州に於いて、西洋諸国に日本が同じ共同体として初めて認められた日です。政治、経済の絆に加え、教育・知的絆を築く嚆矢です」の趣旨を述べた。

 明治7年(1874)帰国して、外務省次官の外務大輔に昇進するが、寺島宗則外務卿に請われて、明治11年妻サダを帯同して再び駐仏特命全権公使として赴任し、パリ万博の監督や万国郵便連合条約に調印して国際郵便の日本での主権を回復した。その頃から肺病をやみ、ドイツ・バーデンでの療養などを繰り返していたが、スペイン・ポルトガルの公使も兼任となった明治13年(1880)に当時駐英公使だった盟友の森有礼に看取られながら35歳で亡くなった。モンパルナス墓地に眠る。(2021・10・22 小野 『ニッポン青春外交官』犬塚孝明―NHK Books、Wikipedia  他)

肖像画:山本芳翠作 東大蔵

3.寺島宗則(てらしま むねのり)1832‐1893 鹿児島 駐英大弁務使
(担当:泉三郎)

幕末・維新を駆けめぐった優れた外交官 電信の父 薩摩の郷士・長野成宗の次男として生まれる。幼名:徳太郎、後、藤太郎。5歳の時、 伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、松木弘安(弘庵)を名乗る。長崎で蘭学を学 ぶ。弘化2年(1845)、江戸に出て川本幸民より蘭学を学び、伊東玄朴の象先堂で塾頭 となる。蘭方医・戸塚静海に蘭方を、古賀勤堂に儒学を学ぶ。安政2年(1855)より 中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶応義塾の前身)に出講する。安政3年(1866)蕃書調所 教授手伝となるが、薩摩藩主島津斉彬の要請で帰郷し、侍医兼御船奉行となり、藩近代 化の集成館事業の一員として参画し造船、電信、ガス、写真、製鉄事業に関わる。再び、 江戸に出て蕃書調所で蘭学を教えながら、英語を独学し始め、やがて本格的に学ぶ。 文久2年(1862)には、英語力を買われて幕府の竹内遣欧使節団に通訳兼医師として 抜擢され、福澤諭吉、箕作秋坪らと共に渡欧。翌年帰国して薩摩に戻ると、文久3年の 薩英戦争に遭遇し、五代友厚と共に外国研究の為と自ら捕虜となり、イギリス政府との 工作をなし以降の薩英協力関係に道をつける。

慶応元年(1865)、五代友厚と薩摩藩英 国留学生19名を率いて密航渡英して(変名:出水泉蔵)、英国外相クラレンドンに貿 易を独占する幕府でなく各藩と直接貿易を説き、薩英友好、倒幕促進に貢献する一方で、 翌年帰国すると、雄藩中心とする連合政権による国家統一国家構想を説く。 明治維新後は、寺島陶蔵(宗則)と改名する。明治元年、参与外国事務掛、神奈川府 判事、神奈川県知事となり、東京・横浜間電信事業の国営化を建議している。その後、 外国官判事として明治元年(1868)にはスペインとの日西修好通商条約締結に関わり、 明治2年には外務大輔に。同4年のハワイ王国との日布通商条約を締結する。さらに、 長崎・上海/ウラジオストック間の電信海底ケーブル敷設交渉をして、日本電信の父と 言われる。明治5年、樺太千島交換条約を締結後、初代駐英日本大使として赴任する。

明治6年の征韓論の政変後、参議兼外務卿となって帰国し、政府の財政難から関税自主 権回復をめざして諸外国との条約交渉に臨み、アメリカとの交渉で一旦は妥結するが、 イギリス・ドイツの反対に遭って挫折する。明治12年には外務卿を辞職。その後は、 文部卿、元老院議長、在米日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長など歴任する。 明治17年(1884)には伯爵に叙せられ、翌年、東京学士会院会員となる。 明治20年、62歳で、肺病の為死去。人となりは、沈着寡黙にして、外交のみならず、 経済にも一見識を持つ政論家として知られる。 (2015・4・19『寺島宗則』-犬塚孝明、「岩倉使節団と寺島宗則」-山崎渾子

肖像画:黒田清輝作 東京国立博物館蔵

文責:吉原

 

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