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尾崎三良/富田鉄之助/西園寺公望

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日時:2021.11.23 10:00~12:30


1.尾崎三良(おざきさぶろう)1842-1918京都留学生
三条実美の家人龍馬の「新官制議定書」草案起草 国際結婚男爵
仁和寺宮諸太夫・尾崎陸奥介(盛之)の三男として京都に生まれる。若くして両親と死別し、学問への志を持ちつつも16歳で烏丸家、のちに冷泉家に仕えた後,三条実美に見込まれて、元家人の戸田氏の養子となり、実美の家人となる。文久2年(1862)、孝明天皇の勅使となった三条実美に随従して江戸に赴き、翌3年の八月十八日の政変で三条ら過激派公卿が京都を追放され七卿落ちとなると、随行して長州に落ちのびる。
慶応元年(1865)、三条と大宰府に移る。その間、撃剣・乗馬を習い、読書を積んだ。「戸田雅楽」の別名で、三条の名代で、西郷隆盛など尊皇攘夷派との連絡役を務め、公卿の臣下や諸藩の人士との交流で攘夷論から開国論へと目覚める。慶応3年(1867)、長崎で米国領事や坂本龍馬と深交を結び、大政奉還の策を協議して岩倉具視に建策する。龍馬や陸奥宗光らと土佐や京都へ奔走し、慶喜の大政奉還の報を龍馬と同席の場で聞いている。直後、西郷隆盛らと太宰府に戻り、事態を三条実美に報告した。龍馬の「新官制議定書」は尾崎三良の起草で、総裁、議定、参与三職制の先駆をなす。維新後、実家の尾崎氏を継ぎ、「尾崎三良」と称する。慶応4年(1868)、三条の嫡男・三条公恭の従者として、中御門寛丸、毛利元功とその従者一行8名で渡英する。

英国でオックスフォード大学聴講生として英法を習得する。ロンドンで、岩倉使節団が米国で条約交渉開始したと知り危機感を覚えて渡米、木戸孝允と岩倉に面談し、条約交渉時期尚早と献策して寺島宗則と共にロンドンに戻る。ロンドン留学中、三良は英語教師のウイリアム・ウイルソン家に同居し、その一人娘・バサイアと明治2年に結婚し、三女を儲けたが帰国時離婚した。明治6年(1873)、木戸の要請で帰国、太政官に出仕して法制整備の任に当たる。明治13年(1880)、ロシア駐在一等書記官として,公使・内務大丞を歴任。明治18年(1885)元老院議官として大日本帝国憲法の審議にあたる。明治23年(1890)の帝国議会発足と共に貴族院議員に勅選され、翌年成立の第一次松方内閣の法制局長官を務める。後に田口卯吉の帝国財政革新会の結成を支援する。明治29年男爵。明治40年には宮中顧問官。晩年には文部部省維新資料編纂委員を務める一方、泉炭鉱会社社長、房総鉄道監査役など実業界にも入り、朝鮮の京釜鉄道設立に参画し取締役も務めた。内閣制度発足時、三条の政治的復権を画策したが成らず。新聞紙条例(1875)や保安条例(1887)の起草に当ったことから酷吏の評価もある。英国で育って16歳で来日した娘・テオドラは尾崎行雄の後妻になり、その娘に相馬雪香がいる。
(2015・4・27『日本の近代16―日本の内と外』-伊藤隆、他)
担当:栗明純生

2.富田鉄之助(とみたてつのすけ)1835-1916
仙台留学生在米領事心得、外交官、日銀二代目総裁、政治家にして実業家と多彩な人生仙台藩の重臣富田実保の四男として仙台城下に生れる。安政3年(1856)、藩命により江戸に出て砲術を学ぶ。帰国して藩講武所の助手となるが、再び江戸に遊学して勝海舟の氷解塾に入る。慶応2年(1866)同門の高木一二郎を連れて、慶応義塾に遊学し、仙台藩士・大條清助の入塾を斡旋する。慶応3年(1867)勝の息子・小鹿のアメリカ留学に随行して渡米して、のちにお雇い外国人として日本に複式簿記を広め、商法講習所の教授にもなるW.C.ホイットニーのニューアーク商業学校で経済学を学ぶ。この間に戊辰戦争となり、仙台藩が朝敵となったので一時帰国するが、勝の薦めで再渡米し、新政府の正式留学生に認定される。岩倉使節団と米国で知遇を得て、ニューヨーク領事心得(のちに副領事)に任命され明治新政府の外交官となる。

2年後帰国して、福澤諭吉の媒酌で杉田玄白の曾孫・杉田縫(杉田玄瑞の娘)と日本で最初の契約書結婚をなす。その後、清国上海総領事に任じられるが、目賀田種太郎ら、米国留学経験者と「人力社」を創設し啓蒙運動にもあたる。後に駐英公使館書記官に任命され日本の近代化への努力を各方面に説いて回った。明治14年(1881)英国から戻ると世界経済に関する知識を買われて大蔵省に移る。翌年、日本銀行が創設されると、初代副総裁に任命されて、総裁の吉原重俊を助けるが、明治20年(1887)吉原総裁の急死で、明治21年、第二代日銀総裁となる。在任中は、公定歩合制度を確立して、その弾力的運用で、変動の激しかった経済の安定に努め、外国為替を整備し、日本銀行の中央銀行としての基礎作りに尽くした。ところが、横浜正金銀行に対する外国為替買い取り資金の供給をめぐって、大蔵大臣・松方正義と衝突し、松方の政治的圧力にも屈せず持論を改めなかったので、1年7か月後に罷免された。この経緯は『忘れられた元日銀総裁―富田鉄之助伝』(吉野俊彦)=この真に尊敬できる人物を知り得たことは、この上ない幸せ=に詳しい。富田は、帝国議会が始まると、貴族院勅撰議員に、東京府知事を経験、明治26年退官後は、実業家に転身、日本勧業銀行、富士紡績、横浜火災海上保険(社長)の設立に参加し、日本鉄道理事など歴任。自己の蓄財に関心なく、私財を投じ共立女子職業専門学校の設立への支援や大槻文彦らと仙台市立東華学校の創立や学資支援などを行った。享年82歳。
日清戦争や政・財・工の藩閥人事を生涯批判した。「情熱こそ学問」が信念の人。
(2015・4・18富田文書、『忘れられた元日銀総裁』―吉野俊彦、他)
担当:吉原重和

3.西園寺公望(さいおんじきんもち)1849‐1940公家留学生
最後の元老明治・大正・昭和の政界を駆け抜ける国際協調派
清華家の徳大寺公純の次男として京都に生まれる。嘉永五年(1852)西園寺師季の養子となる。徳大寺家も西園寺家も共に、藤原北家閑院流系の同属。
慶応3年(1868)官軍参与、明治元年の戊辰戦争では、山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総得、北国鎮撫使などを務める。明治2年私塾立命館を創設するが、明治3年政府の干渉で閉鎖に追い込まれる。同年大村益次郎の推薦で官費フランス留学生(年間1400ドル)として渡仏、ソルボンヌ大学に学ぶ。岩倉使節団とは、このパリで会っている。パリ・コンミューンにも遭遇している。ソルボンヌ大では政治学のエミール・アコラスに学び、政治家への道を薦められる。後に、フランス首相となるクレマンソウや、中江兆民、松田正久、光妙寺三郎(長州藩費仏留学生)らと親交を結ぶ。明治13年(1880)帰国した翌年にフランスで知り合った中江、松田、光妙寺等と『東洋自由新聞』を創刊し社長・主筆となる。明治15年の伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧し、以降伊藤の腹心として政界に重きをなす。第二次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し、外務大臣も兼任する。第三次伊藤内閣でも文部大臣を務め、第四次伊藤内閣では班列として入閣し、伊藤博文が病気療養中は内閣総理大臣臨時代理となり、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務める。その後、伊藤の立憲政友会の総裁に就任して、明治39年(1906)内閣総理大臣に任じられ、第一次西園寺内閣、第二次西園寺内閣を組閣した。この時代、西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。その後は、首相選定に参画するようになり、大正5年(1916)に正式な元老となる。大正13年に松方正義が死去した後は「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼し、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

政治家として西園寺は聡明で国際的視野を持ち、学識が深く、文化的にも洗練された人物であるとの評価が大勢である。また民主主義の潮流は支持したが、大衆の熱狂には批判的であった。親欧米的で、軍部などからは国家主義に反する「世界主義者」と見做されていた。宮中・財界などの姻戚関係を背景に、元老として宮中と国務、軍部の調停役をつとめ日本の政治をリードし続けた。明白な国際協調派で「東洋の盟主たる日本」という狭い気持ちでなく「世界の日本」に着目した。又、天皇の親政には反対し続けた。
教育では、勅語の『忠孝』『愛国』のない、「第二次教育勅語」の改定に挑み、女子を含め日本臣民が列国国民と対等に対応できるのを目標にしたが、伊藤の反対で実現せず。
京都帝国大学(明治27年)、明治法律学校(明治大学の前身)、日本女子大学創設に協力した。生涯正式結婚せず、4人の内妻を持った。学芸を愛し、文化サロン『雨声会」では、鴎外、露伴、藤村、独歩らと交遊した。(2015・5・13)
担当:泉三郎

文責:吉原重和

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