日時:7月25日 10:00~12:30
1.何 礼之(が のりゆき)
長崎唐通詞から英語通訳と教育者に転身法学の基本文献翻訳の実績をもつ学者政治家 ~中国語から英語への独自学習 もし教育者に留まっていたなら・・・~
- 発表概略
①出自(氏名、生没寿命、出身地、家系(特に身分と職業)) ・「が のりゆき」(れいし とも呼ばれる)
・1840年(天保11年)~1923年(大正12年) 長崎西上町 ・父 栄三郎は長崎唐通詞(とうつうじ)の「小通詞末席」栄三郎
・母 種も長崎唐通詞の出
・礼之自身は唐通詞海庵系何家の第8代
②教育(生家の基本教育後 岩倉使節団に結びつくこと)
・家業の唐通詞としての教育
・世相から英語の必要性を考え独自に英語を学習する
③使節団以前の職業等(岩倉使節団参画につながること)
・英語教育者として塾を開き、幕府支援もうける
・長崎、大阪、江戸と移動しながら多数を指導、後の著名者を輩出
・外国船とのトラブル交渉通訳として活躍
④使節団参加での年齢、立場
・幕臣、32歳
・一等書記官・外務6等出仕
⑤使節団員としての役割
・木戸孝允付きの通訳
・憲法制度調査に従事
⑥使節団員としての成果
・法学政治学に関する基本的な文献の翻訳と出版多数
・モンテスキュー『法の精神』は自由民権運動にも影響
⑦使節団以後の活躍(概要)
・学者政治家へ
⑧末柄、著作・遺品等の所蔵・研究・公開(特に使節団に関わること)
- 東京大学史料編纂所、所蔵史料目録データベースにて
特殊蒐書「長崎唐通事何礼之関係資料」の情報を公開
アドレス http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontrollerにて表示の「資料の所在所蔵資料目録データベース(Hi-CAT)をクリックし検索表示 キーワード欄に 何礼之 を入力クリックすると一覧表示される
(以下は東京大学史料編纂所、所蔵史料目録データベースでの何礼之史料の紹介)
何礼之(が のりゆき、礼之助、1840-1923)は、天保11年(1840)に長崎で生まれ、唐通事を勤め、開国後には英語を武器に活躍した人物である。文久3年(1863)に長崎奉行支配定役格となり幕臣に取り立てられ、慶応3年(1867)には開成所教授職並に任じられている。維新後は、開成所御用掛・造幣局権判事・大阪洋学校督務などを勤めたのち、明治4年(1871)、岩倉使節団に一等書記官として参加。帰国後は、内務省の記録課翻訳事務や条約改正調査のための外務省出頭、台湾蕃地事務局御用掛などを経て、内務大書記官にまで昇進している。その後、元老院議官・勅撰貴族院議員にもなっている。
本史料群は、文書史料351点、古写真95点、その他附属資料(箱など)4点の全450点からなり、2015年1月にご子孫の何俊郎(が としお)氏より寄贈された。史料は、文久2年(1862)から大正10年(1921)までの日記類・岩倉使節団関連史料・明治政府からの辞令原本・系譜類などからなる。古写真は、年代が判明するものでは、慶応3年(1867)~大正12年(1923)のものがあり、何礼之の肖像写真を中心に、家族を撮影したものが多い。
但し、本史料群の一部には、以前にマイクロフィルムで撮影されたものが東京大学社会科学研究所図書室に納められており、その段階には現存していた原物史料が散逸してしまったものも含まれている。そのため、351点のうち、32点の史料については、原本不在でマイクロフィルムによる画像データのみの公開とする。
- 岩倉使節団での状況 (以下 許海華「長崎唐通事何礼之の英語習得」関西大学東西学術研究書紀要2011年内年表より引用 同年表は「松方正義関係文書」及び東京大学蔵マイクロ資料 「何礼之文書」より作成とのこと)
・1871年(明治4)10月8日出発
・1872年(明治5)大使に従いて米国にあり
・同年2月6日一行国務省に至り、尚書フィッシュ氏、公使テロン氏、国務省員と会見、条約改定、馬関償金免除の談判を開く。続いて数十回を重ね、殆んど成るに及んで、英西公使の中言ありて、遂に成らず。
此の談判中、塩山三郎重に通訳任し、礼之英和両文を対照翻訳し、田辺太一、福地源一郎、潤色加刪に任し、時には倶に夜を徹セシことあり。又華盛頓滞留中は木戸侯に附随して、汎く政治の事を取調べ、哲学博士クレイル氏に会見数回、其勧告に依りモンテスキューの法律精読を解釈す。後に万法精理と題して、翻訳出版せるもの是なり
・同年10月17日 兼任外務二等書記官
・同年8月 大使の先発として英国倫敦に渡航す。
・同年9月より10月まで英国蘇格蘭の都市を巡察し、宴会席上の乾杯演説を為す。
・1873年(明治6)2月15日 叙従六位。欧州巡行中。
・同年6月、大使に先んじ、木戸副使に随い帰朝。
・同年7月24日、帰朝。
・同年10月5日 特命全権大使事務取調御用之節同局へ出仕
・同年11月28日 補駅逓寮五等出仕
担当:福島正和
2.吉原重俊(よしはら しげとし)1845‐1887 鹿児島 27 歳 外務三等書記官
日本人初のイエール大入学 初代日銀総裁
弘化2年(1845)鹿児島で薩摩藩士の子として生まれる。
幼名:弥次郎。海外留学中は、大原令之助の変名。
幼くして藩校・造士館に学び、漢文・詩文に長じ、12 歳で藩主句読師助に任じられる。
文久 2 年(1862)薩摩藩士の父・島津久光上洛に随行・大阪藩邸に入るが、京都 伏見の寺田屋事件に絡み謹慎処分で鹿児島に送還される。
文久 3 年、薩英戦争が起きると謹慎を解かれ、大山巌、西郷従道らとともに英艦隊に切り込もうとして果たせなかったが老中小松帯刀から金一封を貰った。
その後、藩命で江戸に出て勝海舟の氷解塾に入塾、さらに薩摩藩探索方南部弥八郎の指示で横浜で情報収集にあたる。
横浜英学所でオランダ改革派教会宣教師の S.R.ブラウンに英語を学ぶ。
慶応 2 年(1866)、薩摩藩第二次米国留学生5名(仁礼景範、江夏嘉蔵、湯地定基、種子島敬輔、大原令之助)の一行として英国経由で密航渡米。
ニューヨークでは、ブラウンの母校モンソン・アカデミーに木藤市助(後発 留学生)らと共に入学し、英語や古典を学び、イエール大学入学の勉強に努める一方、 ボストン郊外に留学していた新島襄との交流を深めた。
明治2年(1869)ブラウン牧師の元で洗礼を受けクリスチャンとなる。同年、小松の尽力で官費留学生に認められ、ニューヘブンのイエール大学に入学して政治・法律学を学ぶ。
イエール大ではAddisonVan Name の家に住んだ。
就学の途次の明治 3 年、大山巌ら普仏戦争観戦武官団一行に随行を命ぜられ、品川弥二郎、中浜万次郎と共にイギリス経由で、 明治 4 年、ベルリン、フランクフルトを経由して休戦中のパリに入る。
その後、明治政府がフランクフルトのナウマン社に依頼していた明治紙幣の印刷監督を命ぜられ、大山 の一行と離れて、その任に就く。
明治 5 年、米国の岩倉使節団からワシントンに呼び戻され外務取調通訳兼外務三等書記官に任じられる。その後全権委任状を取りに大久保利通、伊藤博文に随行して帰国し、共に再渡米するが交渉は打ち切りと決まり、次のイギリスで 外政事務取調を拝命し従事する。
明治 6 年、帰国後、外務省五等出仕で入省、外務一等書記官として一旦米国公使館勤 務を命ぜられるも、一転大蔵省五等出仕に転じた。
明治 7 年、租税助、横浜税関長 となるが、大久保利通の清国出張に高崎正風、ボアソナードらと随行する。
明治 10 年、大蔵省租税局長兼関税局長。西南戦争の被害調査、難民救護に当る。
明治 11 年、パリへ出張して、松方正義、上野景範、青木周蔵らと不平等条約改定交渉にあたる。
明治 13 年、横浜正金銀行管理長、大蔵少輔。
明治 15 年、日本銀行創設で初代総裁に成った
明治18年、10か月間欧州で外債募集の任にあたるが期熟せず帰国。
明治20年、国内で兌換紙幣回収整理。手形、小切手の流通促進など近代的金融 制度の整備に当ったが、惜しくも現職のまま病死した。
担当:吉原重和
3.山口尚芳(やまぐち なおよし)1839‐1894 佐賀 33歳 副使・外務少輔
岩倉使節団4副使の内、唯一全行程を岩倉大使と行動を共にした副使、使節団副使としては、地味で目立たないが大隈重信の代理として、佐賀藩を代表した。
天保10年、佐賀藩武雄領で、山口形左衛門尚澄の子として生まれる。通称:範蔵。ますか。ひさよし。とも読む。佐賀藩武雄前領主:鍋島茂義に見込まれて、15歳の時、他藩士らと長崎に蘭学・オランダ語を学ぶ。更に、佐賀藩の大隈重信、副島種臣らと長崎英語伝習所(済美館)と致遠館などでフルベッキより英語を学ぶ。
帰藩後、翻訳方兼練兵掛を命ぜられる。幕末には、薩摩・長州藩士らと交流し、薩長同盟にも関与し、京都では岩倉具視とも交流を深める。王政復古の後、東征軍に参加。江戸城開城に際し、薩摩藩・小松帯刀らと一番乗りで入城を果たしている。
明治維新政府には、外国事務局御用掛で出仕。外国官、大阪府判事試補、越後府判事、東京府判事兼外国掛、外国官判事として箱館府在勤など明治元年一年の内に歴任する。
明治2年、長崎に赴き、フルベッキを東京の大学へ招聘の任にあたる。次いで、外国官判事兼東京府判事として通商司総括となる。更に会計官判事に転じ大阪府在勤となるが、直ぐに大隈重信の配下の大蔵大丞兼民部大丞に任ぜられる。以上は明治2年のこと。
明治3年、北海道開発御用掛を命じられるが、翌4年外務少輔に転じて、岩倉使節団の副使として欧米回覧の旅に出る。岩倉大使と大隈重信の配慮だろう。回覧中に大隈重信宛に16通の書簡を送り、回覧の見聞を詳細に報告している。英国の産業を見て、「惜しむらくは十有五年前、この大形を一観せば方略無きにしも非ず、嗚呼遅れたり遺憾なり・・表皮之開化論等は断然打ち捨て根基を強くし人知の進歩を図るが肝要・・」などの所見を述べている。山口の従者は3人いた。息子・山口俊太郎(9歳)、相良猪吉(大隈重信の甥)、川村勇(14歳、静岡出身、帰国後18歳で死去)の三名である。
長男俊太郎は、岩下長十郎と共に「使節団一行中の二神童」と呼ばれ、回覧中に通訳を務める程に語学習熟し、イギリスに残って大学を卒業して9年後に帰国した。
帰国後の山口尚芳は、明治6年の政変では当然、外遊組に組みし、佐賀の乱では、元藩主の鍋島茂昌を説いて、反乱へ呼応を阻止し、自ら兵を率いて反乱軍の鎮圧にあたる。
以降、元老院議官、元老院幹事、会社並組合条例審査総裁、会計監査院初代院長を歴任。明治14年の政変で一旦大隈に準じるが、直ぐ参事院(内閣法政局の前身)の議官・外務部長兼軍事部長。戒厳令・清韓両国在留の御国人取規則、徴兵令改正案などの元老院回付の内閣委員(明治15年)、高等法院陪席裁判官、貴族院議員を歴任した。正三位勲一等瑞宝章。現在も、武雄市では毎年一月には「範蔵(尚芳の通称)まつり」が開催されている。(2021・7・15、「近代国家への船出―山口尚芳」、ウィキペディア他
担当:小野博正