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福地源一郎/林董/渡辺洪基

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日時:2021年6月25日 10:00~12:30
場所:ZOOMに依るオンライン開催

1.福地源一郎(ふくち げんいちろう)1841‐1906 幕臣

一等書記官・大蔵書記 洋行四回 政治家 作家 劇作家 ジャーナリスト 歌舞伎座を創設 福澤諭吉と『天下の双福』と言われた男のセカンド・ベストな生き方とは。 長崎の儒医・福地源輔(苟庵)の長男として長崎に生れる。幼名:八十吉。号:桜痴。 漢学を長川東洲に、蘭学を名村桃渓(八右衛門)に、英語の読みは森山多吉郎(栄之助) に、英語の発音は中浜万次郎に教わる。福澤諭吉も英語をこの二人から学んでいる。 江戸に出て、外国奉行支配通弁御用雇となり、翻役に従事する。万延元年御家人に任 用され、文久元年(1861)の竹内下野守遣欧使節に通詞で福沢諭吉らと参加し、ロシ アとの国境画定交渉に携わり、再び、慶応元年(1865)には柴田日向守遣仏使節に随 行し、仏人ロニーからフランス語を学ぶと共に西洋の新聞、演劇、文学に目を開く。 帰国した慶応2年、外国奉行支配調役格・通詞御用頭取(蔵米150俵3人扶持)の 旗本となるが、開国論が受け入れられず悶々とする。大政奉還の際は、徳川慶喜大統領 の新政府構想を上奏するが取り入れられず。江戸開城後、『江湖新聞』を創刊。新政府 を薩長政府と非難し、発禁処分で逮捕されるが、木戸孝充のとりなしで無罪放免となる。 暫くは、戯作・翻訳と私塾・日新舎で英語、仏語を教えて生計を立てる。この頃、吉原 の芸妓・桜路に因み桜痴を号す。明治3年、伊藤博文の渡米調査団に誘われ、会計調査 にあたる。明治4年の岩倉使節団に一等書記官として米欧視察、途中から別命を受け、 トルコ、エジプトの立会裁判所交渉(領事裁判)を視察して帰国する。明治 7 年、大蔵 省を辞し、政府系『東京日日新聞』に入社し、署名入り社説を創設、発行部数を増やす。 政府の漸進主義を支持し、御用新聞と言われる。だが、明治 8 年の新聞紙条例・誹謗律 が発布されると、新聞各社の要望書を起草。同年の地方官会議の議長・木戸孝充を助け、 書記官を務め、西南戦争では従軍記者となって報道。明治天皇に戦況報告などをする。 渋沢栄一と東京商法会議所を設立し、府会議員となり議長を務めるなど、地方民権論 で漸進的立憲主義の急進・理想は追わず、不完全でも現実的な対応=セカンドベストの 美学を説く。明治12年頃より、演劇や文学活動に傾倒していく。新しい演劇をめざし、 英・仏の戯曲・小説を翻案して、河竹黙阿弥や三遊亭圓朝に提供すると共に、演劇改良 運動を展開する。明治20年頃より、歴史的著作を著す。『春日局』(1891)、『関原誉 凱歌』(1892)、『尊号美談』(1887 光格天皇)、『天竺徳兵衛』(1892)、『山県大弐』(1892)、 『車善七』(1901)、『幕府衰亡論』(1892)など。その他、歌舞伎座を創設して、市川 団十郎の座付き作者など多数の戯作・小説・風刺ものを著す。人生多毛作を実践。 (2015・8・12 五百旗頭真『福地桜痴論』、大久保啓次郎『天下の双福』他)

2.林董~英国留学に始まり日英同盟締結に至った活躍と彼を育んだ人々

林は蘭方医佐藤泰然の5男として嘉永3年(1850)下総国佐倉に生まれた。父親の泰然は天保14年(1843)佐倉藩主堀田正睦の招きで、佐倉に医学塾と診療所を兼ねた「順天堂」を開き、藩医となっていた。

林が12歳の時父は隠居して横浜に移住したが、林も1862年横浜に呼ばれ、同地在住の蘭方医林洞海の養子になり、林董三郎と改称した。英語習得が緊急課題とする父親の意向で林は米公使ハリスの通訳ジョセフ・彦等からも英語を学んだ。翌年養父はヘボン夫人クララに林への英語教育を託したがそれがヘボン塾誕生の機縁となり、林は最初の生徒として以後3年間本格的な英語を学び、「稍々英語も解し得る様なりたり」。同学に高橋是清(後日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣)、益田孝(後三井物産創設者)等がいた。開港地横浜居留地で外国人から英語・西洋事情を学んだことが、後に林が内外でパイオニア的活躍を果たす素地を作ったと云えよう。

林は慶応2年6月(16歳)に幕府英国留学生として渡英する。同行した14人の内初めから英語が話せたのは林だけだった。英国留学1年足らずで戊辰戦争が勃発したため、学半ばで帰国を余儀なくされる。明治元年(1868)6月横浜帰着と同時に榎本武揚の品川脱走に同行を志願し、旗艦開陽丸の見習士官として箱館戦争を戦った。敗戦投獄後、政府軍参謀黒田清隆に新政府での活躍を嘱望され明治3年(1870)4月禁錮をとかれる。黒田は品川脱走に際して外交団長老パークスに宛てた文書の林の英訳の評判を聞いていた。出獄後は数少ない洋学に通じた人材として陸奥宗光や伊藤博文等の要人に見込まれ、紀州藩藩政改革、岩倉使節団随行、工部大学校設立を手始めに、内政・外交両面で八面六臂の活躍をする。岩倉使節団書記役の久米邦武は、林を「英語に巧者で西洋通の第一」と、親交のあった福沢諭吉は林を「学者風人物」と評していた。

朝鮮、清国、ロシアとの関係が流動的な時期の外交分野での活躍が目立つ。1891年(明治24)から1908年(明治41)まで、外務次官・駐清・駐露・駐英特命全権公使、最後は外務大臣として、日清戦争から日露戦争に至る難題に直面し続け、外交キャリアは通算18年に及ぶ。特筆すべきは駐英特命全権公使として、日露協商を目指す伊藤博文の抵抗を凌いで、英国外相第5代ランズダウン公爵と交渉の末「日英同盟」を締結し、ロシアの脅威に備えると共に、日本の国際的地位を高めたことであろう。

多忙の合間に、多くの洋書の翻訳・刊行をこなしていたのも驚異的だ。外人記者が「一流の英語」と評し、久米邦武が「林の口訳は書き取りが追いつかないほど早い」と嘆いた英語力で、米欧の自由主義思想家の著述から、ローマ史論やマホメット伝(岩倉使節団英国滞在中、依頼で口訳)、刊行はしなかったが陸奥の和歌山行に同行した際には紀州藩軍制改革のため「軍略の書一部」も翻訳している。

蘭方医5男の林董が、変動の時代にいち早く英語力・西欧知識を身に着け、日清戦争処理、日英同盟締結等時代の要請に応えられたのは、先ずは幼少時に横浜に移住させ英語を学ばせた実父佐藤泰然、そしてヘボン夫人を説得した養父林洞海、我が子のように林を可愛がったヘボン夫妻、箱館戦争を共に戦った義兄榎本武揚、捕虜林を救った黒田清隆、多くの実力者を紹介した実兄松本良順、そして山東直砥、陸奥宗光、伊藤博文はじめ多くの実力者と巡り合う幸運に浴したためであろう。

 

3.渡辺洪基(わたなべ ひろもと)1848‐1901 越前 25歳 二等書記官

明治国家のプランナー・東京帝国大学初代総長・三十六会長

『二人の知の政治家―伊藤博文と渡辺洪基』(瀧井一博)と評価が極めて高い。
福井藩医の渡辺静庵の長男として越前に生れる。幼名:孝一郎。号:浩堂。旦堂。

2歳の時、福井で最初の種痘を父より受ける。10歳で、立教館に入学。更に福井の済世館に学ぶ。18歳で江戸に出て、佐倉の蘭学者・佐藤尚中(舜海)に理学を学ぶ。開成所・箕作麟祥や慶応義塾・福沢諭吉に英学を学び、のち会津藩・米沢藩で英学校を開く。慶応3年、西洋医学所出仕、英蘭句読師を務める。維新後、東京に出て、新政府に国民皆兵や殖産興業を唱える。これが岩倉具視の目に留まり、明治2年、大学南校の助教に登用される。医術を離れて、語学力、数理力、組織力を次第に発揮する。明治3年、外務大録で出仕。翌年、岩倉使節団に外務大記で随行するが、条約交渉が始まると、早期改正は国力を損なうと、辞表を出して帰国してしまう。だが、免職にはならず、琉球使臣接待係を経て、オーストリア兼イタリア公使館二等書記官として、新婚の妻・貞子と同伴赴任。妻にはドイツ語と英語を習わせ、皇帝ヨーゼフ一世の前で、妻に琴・三味線を演奏させる。公使佐野常民の帰国の後、一等書記官・臨時代理公使となる。任期が終わると、自費で英・露・トルコ・印度を周遊して帰る。明治11年、学習院次長として学内規則を整備、商工業の整備の為の鉄道整備と博物館建設を説く。明治12年、榎本武揚、鍋島直大、佐野常民らと謀って、東京地学協会を創設し社長に北白川能久親王を迎える。明治13年、太政官法制部主事として「集会条例」を起草する。一時官を辞し、新聞記者の原敬と10か月間日本一周の旅に出る。明治15年、元老院議官に(17年まで)。17年、工部小輔。明治18年、東京府知事。明治19年、帝国大学令に伴い、東京大学と工部大学校を合併した帝国大学初代総長を、伊藤博文、森有礼の懇請で引き受ける。渡辺の功績は色々あるが、明治20年創設の「工手学校」など教育者の顔、政治家・官僚の顔、実業家の顔に各種協会・学会を起して、三十六会長の異名をとる八面六臂の多面性にある。特に、最初のウィーン公使館駐在でウィーン万博を経験から、内国勧業博覧会事務局御用掛で殖産興業に尽力、ウィーンでシュタイン法博士より伝授の国家学が、伊藤博文の憲法や国家構想と共鳴して、明治国家のプランナーとして、彼の創設の国家学会が明治骨格確立に寄与していくことになる。明治23年、駐オーストリア兼スイス公使。実業でも、両毛鉄道社長、関西鉄道、帝国商業銀行、芝銀行重役。慶応義塾評議員。大倉商業学校督長。衆議院議員。貴族院議員。立憲政友会設立委員等多面的活躍をなして、54歳で死去。鹿鳴館では妻とダンスに興じた。

(2021・6・20「西洋文化との出合い―渡辺洪基」(白崎昭一郎}Wikipedia

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