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塩田三郎/小松済治/畠山義成

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日時:2021年5月28日 10:00~12:30
場所:ZOOMに依るオンライン開催 

1.塩田三郎(しおた さぶろう)1843‐1889 幕臣 29歳 一等書記官外務大記

幕末維新で有数の英語・仏語通訳官 条約改正に尽力

天保14年、江戸で塩田順庵の三男として生まれる。通称:篤信。号:松雲。

宮川家に養子に出されて、宮川三郎を名乗る。兄病没して、再び塩田姓へ戻す。

函館で栗本鋤雲に漢学を学び、メルメ・カションにフランス語を、英語通詞の名村五八郎(1826‐1876)の門下生として英語を学ぶ。名村五八郎は万延元年の新見豊前守遣米使節団に函館奉行支配定役格通詞で、条約批准の日本人初の使節団に随行していて、その配下に立石得十郎,斧次郎父子がいた。又、カションは、1859年函館に赴任し、栗本鋤雲、塩田三郎、立広作らを教えた。当時の函館では、新見使節団の副使だった村垣範正が外国奉行兼函館奉行を務めており、幕府の蝦夷地開発の一環で、米国公使タウンゼント・ハリスに依頼して、米国地質学兼鉱山学士のパンペリー(Raphael Pumpelly)とブレイク(William Brake)を招聘して函館鉱山学校を作り、武田斐三郎(諸術調所教授)、大島惣左衛門高任(蕃書調所出役教授)が共に蝦夷全域の鉱山調査にあたっており、その通訳に抜擢されたのが塩田と立広作であった。この鉱山調査は文久元年から同3年まで続き、新政府の北海道開拓団が発足する10年前のことである。

文久3年、横浜鎖港談判のため池田筑後守遣仏使節団が派遣されると、塩田は調役格・通弁御用出役で尺振八(のち共立学舎創設)と共に起用された。この使節団には、田辺太一、益田鷹之助、孝父子も参加している。このころ仏国公使から公使館付通詞に塩田を雇いたいと懇請されたが、幕府は日本側の必要人材として断っている。元治2年(1865)幕府が設置した全寮制・横浜仏語伝習所は校長がカションで、塩田が助教授に起用された。 慶応3年(1867)外国奉行支配組頭に登用。

明治維新後は、民部省に出仕して民部権少丞、のちに外務省に転じて外務大記となる。明治4年の岩倉使節団には、最初から発令はあったものの、どういう事情か、後発して単独で渡米し、ワシントンで本体と合流してフィッシュ国務長官との最初の条約交渉に間に合い、首席通詞を務めている。

帰国後は、外務大丞、その後外務少輔を歴任して、もっぱら井上馨外務卿の配下で、条約改正交渉の補佐として尽力する。明治18年(1885)には、特命全権駐清公使に任命されて、明治19年(1886)から明治22年まで清国に駐在する。明治22年、北京で客死する。近年中国は、琉球問題に関し「1887年、曾紀澤・総理衛門大臣が、当時の塩田三郎公使に対し、まだ琉球問題は決着が付いていないと提起したのに、塩田公使は、‘日本がすでに領有済み’と取り合わなかった」とクレームをつけている。

(2021・4・23 地学団体研究会北海道支部、泉三郎著作など)

2.小松済治(こまつ せいじ)1848‐1893 紀州 25歳 二等書記官

外務七等 ドイツ留学生第一号 医学から法学へ グナイスト『法治国家』を翻訳 出生は江戸、会津藩命でドイツ留学。

祖父馬島瑞延、父馬島瑞謙は会津藩医で、その長男として江戸で生まれる。先祖は千 葉と和歌山出身の小松姓と言われる。祖父の代に、馬島流の眼科を学び、師を凌駕する 技量で馬島姓を名乗ることを許されたが、同門生の妬みを買って全国巡遊を余儀なくさ れ、偶々、会津に寄った時に、藩主松平容敬の眼病と皮膚病を治したことで、藩医に取 り立てられた。

済治は1859年父の死で家督を継ぎ、会津に出て藩校・日新館で南摩 綱紀(後の東大教授)、杉原外之助に学び、次いで、蘭学所で、山本覚馬や川崎尚之助 に蘭学を学ぶ。慶応元年、会津藩命の蘭学修行に長崎に出て、西洋医学校「精得館」で オランダ医学を学ぶ。禁門の変(1864 年)での鉄砲よる負傷兵の治療研究が目的だっ たと言う。長崎で知り合ったドイツ商人カール・レーマンが済治の人生を開いた。レー マンにドイツ語を学び、慶応3年には、このレーマンを通じ山本覚馬は、撃針銃(後装 ライフル銃)4300挺(会津藩1300、和歌山藩3000)の発注契約を結んだ。 この買付で帰国するレーマンに随行して、藩命で済治はドイツ留学に出る。

1869年 にハイデルベルク大学に学籍登録して、医学と後に法学を学んでいる。追ってドイツ留 学生となった赤星研造と青木周蔵に先立つこと一年前のドイツ留学生第一号であった。 明治3年に帰国したが、会津藩は戊辰戦争に敗北していたので、父祖の地・和歌山に 戻って、馬島済治から、先祖の姓の小松済治に改名した。紀州藩に出仕して軍制改革など指導して いた小松は、明治4年、兵部省に出仕し、二等書記官となって岩倉使節団に随行した。 アメリカより大久保、伊藤の二人に伴って、天皇委任状を取りにいったん帰国した。そ の時、岩倉大使より、天皇の御真影(写真)を、各国歴訪に使いたいので貰って来いと 頼まれていたが、宮内省は馬上洋服姿の披露できるような英姿写真はまだ撮れていない (天皇は写真嫌いでなかなか応じてくれない)と結局,再渡米までに間に合わなかった。 帰国後の明治7年に陸軍省に出仕、翌年判事になるが、明治12年、いったん官を辞 して、ルドルフ・フォン・グナイストの『法治国家』を『建国説』として翻訳出版した。 明治18年、司法省書記官に復帰、明治20年、民事局長、明治24年、横浜地方裁判 所長を歴任したが、47歳で亡くなっている。(2015・8・14 荒木康彦『近代 日独交渉史研究序説―最初のドイツ留学生馬島済治とカール・レーマン』他)

3.畠山義成 薩摩藩 29歳 留学生/三等書記官

天保13年9月〜明治9年10月20日(1842年10月〜1876年10月)

畠山義成は薩摩藩の上級武士、一所持・市成島津家の三男で、一緒持格・畠山家を継いだ。畠山の祖父・島津石見久浮は、薩摩の財政を立て直した名家老として知られる調所広郷の時代、即ちお由良騒動、高崎崩れの時代に調所と同じ家老の職にあった。父親の久誠は安政年間に病死しているが、長男の久寶(久宝)が市成島津土岐家を継いで島津弾正を名乗り、次男は二階堂家を継いだ。二階堂も、一所持や一所持格ではないものの、家老も複数出ている名家である。畠山家は、関ヶ原で大将の島津義弘の身代わりになって討死した英雄、長寿院畠山盛敦の家系で、実家の一所持よりも1ランク下の一所持格だが、次男が二階堂家に、三男が畠山家に、と次男以下も名家を継いでいることで、この家がかなり風向きのいい家であったことがわかる。

文久から慶応にかけて、畠山の長兄は島津弾正と名乗り、久光について江戸や京都と鹿児島を往復し、式部と名乗った鳥羽伏見から戊辰戦争時代には、東山道総督岩倉具定の下、伊地知正治参謀、島津式部先鋒薩兵総督として、川村純義、野津兄弟、大山巌などが隊長を務めたとみえている。文久3年(1863年)の薩英戦争の際には、市成にあった弾正の屋敷から、久光・忠義の藩主親子が海戦の様子を見ていた。

【薩摩留学生】
元治2年、薩摩藩はイギリスへの留学という秘密プロジェクトを企て、畠山は将来の家老候補として留学生の一人に選ばれた。しかし、慶応3年頃から薩摩藩は留学生どころではなくなり、志半ばで帰るわけにはいかないという派が残り、半分が帰国することになった。進退に窮した残留組留学生にローレンス・オリファント(元英国公使秘書として日本にいたこともある親日家)から、トーマス・レイク・ハリスの宗教的コミューンでの自給自足生活の提案があり、畠山以下、松村淳蔵(のちアメリカ海軍士官学校の日本人初卒業生として海軍兵学校校長等を務めた)、森有礼(のち米国公使、清国公使、文部大臣等)、鮫島尚信(のちフランス公使)、吉田清成(のち財務省大丞、米国大使等)、長澤鼎(のちカリフォルニアでワイン王として成功)の6人が参加を決め、オリファントと共にアメリカに渡った。

翌年、畠山はこの宗教の教義と大工や農夫として暮らすことに疑問を抱き、教団を離れ、吉田、松村が追い、森と鮫島は帰国し、幼かった長沢だけがハリスの元に残った。ハリスらはその後カリフォルニアに越してワイン作りを本格的に進め、長沢は養子としてこのビジネスを後継して成功させた。長沢については多くの著作がある。

ハリスの教団を脱出した畠山は、ニュージャージー州ニューブランズウィックにあるラトガース大学に入学した。同大学在校中にクリスチャンとなり、また、日本人留学生の世話役、政府からの送金の管理役を務め、日本人留学生の代表者と考えられていた。

1871年夏、日本政府からヨーロッパの教育を視察しながらの帰国を命じられ、10月にイギリスに渡ったが、岩倉使節のサポート要員としてアメリカへ戻ることを命じられた。岩倉使節では久米と二人で各国の取材にあたった。

【帰国後】
1873年9月に約8年ぶりに帰国した畠山を待ちかねていたのは、文部省学監として来日したデビッド・モルレー、およびその夫人のマーサであった。米国国議会図書館にあるDavid Murray Papaersには二人が日本からアメリカにいる親戚に書き送った手紙が含まれ、畠山はほぼ毎回その手紙の中に登場する極めて近しい存在となっている。文部省学監のモルレーと開成学校校長、博物館、書籍館、植物園責任者であった畠山は、公私共に最高のパートナーであり友であったとのちにモルレーは書いている。

帰国後の畠山の行動で、文部省とあまり関係ないが1874年2月に九州派遣されている。文部卿であった木戸から事後報告のようなせわしない九州への出張の届けが出ている。日付から、薩摩に戻る島津久光に同行していたと思われ、長兄の久寶は明治6年に久光が東京に呼び出された際に同行しているため、共に鹿児島に戻ったかと思われる。

同年12月には金星の日面経過観測のために来日したジョージ・デビッドソンを手伝いがてら、関西、九州の学校を視察した。

【フィラデルフィア万博と最期】
モルレー夫妻は結核にむしばまれていった畠山の健康を案じ、1875年の4月からは畠山を元加賀藩邸(現在の東大農学部のあたり)の住まいに畠山を同居させた。

畠山を仕事から離したいと考え、日光旅行に連れ出したりもし、二人が翌年に予定していた帰国に畠山を同行させようと計画していたが、多忙と健康状態から出発は遅れ、万博開催後になって田中不二麿と共に訪米した。アメリカでは万博には参加せず、もっぱら郊外のブリンマーというところで療養に務めた。ブリンマーというと、のちに津田梅子が留学したブリンマー大学があるが、畠山が療養していた頃には存在していない。

仕事から引き離すというモルレーの企ては成功したものの、容態の良くならない畠山は日本への帰国が決まった。帰国にはプリンストン大学を卒業したばかりの折田彦市が付き添い、万博の現地代表だった西郷従道らに見送られ、パナマ航路で帰国したが、日本到着まで数日を残した1876年10月20日、太平洋上で死亡し、エンバームされた死体が日本へ戻った。10月30日、まだ出来て数年しかたっていない公営墓地の青山墓地で盛大な神式葬儀が行われたが、東京では思案橋事件が起こったため政府要人の参列はなかったようだ。モルレー夫妻はまだ日本におらず、12月になって帰国したモルレーは畠山を失った悲しみと落胆をHatakeyama Yoshinari of Japanという文章にまとめている。

最新情報として、畠山は二階堂家の墓(青山霊園)に入っているそうだ。

参考文献:
国立公文書館デジタルアーカイブ
薩摩藩武鑑
薩藩海軍史
土岐家文書(鹿児島県資料センター黎明館所蔵)
中井弘日記「西洋紀行航海新説下」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994962
長澤鼎日記
Thomas Lake Harris文書マイクロフィルム(ウィスコンシン歴史教会)
ラトガース大学グリフィスコレクション(New Brunswick, NJ, USA)
改革派教会アーカイブ(New Brunswick, NJ, USA)
Life and Adventure in Japan エドワード・ウォーレン・クラーク
グリフィス文書:福井大学附属図書館電子図書館コレクション https://www.flib.u-fukui.ac.jp/elib/griffis-m/
David Murray Papers(米国国議会図書館蔵、ウィスコンシン大学蔵マイクロフィルム利用)
Japan Day by Day エドワード・モース
折田彦市日記(プリンストン大学、京都大学、コピー蔵)Hatakeyama Yoshinari of Japan デビッド・モルレー
各種新聞

ほか

 

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