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英書輪読会:「英国外交官がみた幕末維新(英文書名Memories)」第2章

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日時:2021年7月21日 13:00~15:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
ナヴィゲーター:市川三世史
内容:「英国外交官がみた幕末維新(英文書名Memories)」

第2章:「将軍との会見(英文題名The Shōgun or Tycoon)」
江戸幕府第14代将軍徳川家茂(いえもち)は慶応2年7月20日(1866.8.29)に病のため満20歳にて夭折したが、継嗣なきため将軍家継承に争いを生じ、水戸家徳川斉昭(なりあき)の強い後ろ盾を得た徳川慶喜(よしのぶ)が第15代将軍に就任となった。

この就任披露の謁見を行うため慶喜は、諸外国の日本駐在公使に、大阪城への招待状を送付した。
招待状を受けた駐日英国大使パークスは、この機会を捉えて、すでに勅許を得た安政五か国条約(米・蘭・露・英・仏と締結した不平等条約/1858年)に付属規定されている兵庫の開港期日を朝勅により前倒し実現すべく、これを謁見受諾の前提交換条件として慶喜に要求した。この兵庫開港は、徹底的な外国人嫌いの孝明天皇が拒否し、差し止めていた。

パークスは兵庫開港と大阪開市が、日本の開国を大きく進展すると捉えている。間慶喜は再三朝廷に伺候し、要求期日の謁見日ぎりぎりに兵庫開港の勅許を得ている。すなわちパークスはこの取引に成功した。

  • 謁見準備の事前調査のため1867(慶応3)年2月に大阪を訪問。
  • 大阪訪問中に江戸公使館で、館員2名が日本人暴漢の刀による殺戮被害を恐れて、拳銃自殺。
  • 謁見日、4.29(慶応3年12月16日)、これは打ち解けた謁見となった:

予想外の晩さん会に招かれ、極上の歓待を受けた。パークスは慶喜の人格、容貌、見識、人間的な魅力に圧倒され、最大の賛辞を外相スタンレーの他に、宿敵の仏大使ロッシにまで伝えている。会食後慶喜は、壁を飾る三十六歌仙の絵の一つをパークスに贈ると述べ、一連の絵の一つが欠けるとしても “これが英国公使の所有になったと記憶に残ればよい”として、最上の好意を示した。しかしこの絵の贈呈という演出は、翌日以降の蘭国総領事、仏国公使、米国公使との謁見においても、再演された。

  • 大阪城の内観は、鳥羽・伏見の戦いの後、1.27(慶応4年1月3日)新政府軍の攻撃によってほとんどを焼失したが、当時は壮麗、絢爛豪華であった。
  • この後に臨席した伝統的であるが形式的な公式の宮廷行事を、ミットフォードは、「遥かに遠い東の国の物語」に例えている。
  • 来日当初は、江戸の風景をスコットランド農村の家畜小屋の連なりに例えて悲観したミットフォードであるが、市井の生活に馴染んでくると、帰国話が出たときは、これを拒否するまでになった。
  • ミットフォードの著作と関連出版:
  • 昔の日本の物語Tales of Old Japan (1871初版、チャールズ・E・タトル出版 1966,) :有名な著作

収録:―花咲爺、舌切雀、文福茶釜、かちかち山など勧善懲悪の寓話。

―神戸事件・切腹: 備前藩士滝善三郎の切腹を立会描写。

―講談もの、古い民話(佐賀怪描伝、赤穂浪士、白井権八と濃紫の恋、侠客・幡随院長兵衛、他)

―江戸繁盛記(幕末の儒学者 寺門静軒)、―諸礼筆記(作法・礼儀集からの抜粋)

  • The Bamboo Garden (1896)、竹の庭:竹や紅葉を好み、遺産相続したバッツフォード邸内に造園。
  • The Garden in Japan (1906)、日本の庭
  • The Garter Mission to Japan (1906) ガーター勲章贈呈使節
    • 『英国貴族の見た明治日本』 長岡洋三訳/ 新人物往来社、1986年
    • 『ミットフォード日本日記、英国貴族の見た明治』長岡洋三訳/ 講談社学術文庫、2001年
  • Memoirs 2 vols (1915)、「リーズディ―ル卿回顧録」
    • 日本関連部分『英国外交官の見た幕末維新』長岡洋三訳/ 新人物往来社、1985年

―『英国外交官の見た幕末維新 リーズディール卿回想録』長岡洋三訳/ 講談社学術文庫、1998年

  • ヒュー・コータッツィ編『ある英国外交官の明治維新 ミットフォードの回想』中須賀哲朗訳/ 中央公論社、1986年
  • Further Memories「続回想録」(Hutchinson & Co., London, 1917),
    • 日本関連部分『ミットフォードと釈尊 英国外交官の見た理想郷日本』大西俊男訳/春風社、2016年
  • 評伝:『AB・ミットフォード』大西俊男著/ 近代文芸社、1993
  • 「ミットフォードの回想(Memories by Lord Redesdale)」の再編集と再版:

同書(1915年刊行)はその後廃刊になったが、22代駐日英国大使サー・A・H・H・コータッツイ(Sir Arthur Henry Hugh Cortazzi)が1980年(昭和55年)に再編集し、1985年に再版(中須賀哲郎翻訳)、1986(昭和61)年に出版(中央公論社)された。

再版にあたりコータッツイは「回想録」の日本関連各章をほとんど再録し、これを、英国国立図書館保管の外交文書、ミットフォードの在任中の報告書、父親へ書信をもとに補足した。

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現代の文書複製は、スキャナー、コピー機を使って迅速簡単に処理可能であるが、ミットフォードの時代は全て手書きであり、非常に手間どった。

最初の手動式タイプライターの製造販売は、1870年のデンマークのR・M・ハンセンであるが、このマシンでは、オペレーターには印字文面が見えない。その後レミントン社が1925年頃に世界初の実用的電動式マシンを、その後1935年に、IBMが回転式のボール・ヘッド式マシンを発表した。

約150年前の外交公館では、書類の複写は全て手書きである。コータッツイは再版書の「まえがき」に、ミットフォード時代の書記官の日課を、「在外公館から届いた手書き急送文書を、薄暗い庁舎内でひたすらに筆写」であったしている。ミットフォードは「回想録」に、自嘲を込めた短い仏語の詩を残した:

俺はしがない筆耕人よ

なんて嫌ななりわいだ

愉快な時もかなしい時も

ペンの動きは止められぬ

これはアメリカ民謡としてテネシー・アーニー・フォードやプラターズが歌ったSixteen Tons (16トン)の歌を、思い起こさせる。その日本語の歌詞は、以下のとおりであった。

おいらの商売炭鉱夫

年がら年中地の底で

石炭掘って泥まみれ

まったくやりきれないよ

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コータッツイの「リーズディール卿回想録」再版書中の「まえがき」,および同書第1章末尾の「編者補記」、さらに「訳者、中須賀哲郎、のあとがき」は、ミットフォードについて初めて明かされた記述であり、彼の生きた時代の情景を垣間見せている。

  • ヒュー・コータッツイSir Arthur Hugh Cortazzi, 1924-2018: について

□経歴。

聖アンドリュー大卒、ロンドン大卒。1946年初来日。駐日英国大使、任期1980-1984年。日本アジア協会代表(1982–1983年)、ロンドン日本協会代表(1985–95年)。日本研究者として数多くの日英関係と日本の歴史関連書を執筆。ジャパンタイムズに度々投稿。

□ 駐日英国大使と任期:

  • 初代:サー・R・オールコックSir Rutherford Alcock、1859-1865、初代駐日総領事から昇格
  • 第2代:サー・ハリー・パークス Sir Harry Smith Parkes、1865-1883(18年間)
  • 第6代:サー・アーネスト・メイソン・サトウ  Sir Ernest Mason Satow、1865-1863
  • 第22代:サー・ヒュー・コータッツイ Sir Arthur Hugh Cortazzi、1980-84(昭和55-59年)
  • ミットフォードの、1873年、サンフランシスコ経由の短期間の日本再訪:

ミットフォードは多くの海外旅行を行い、1873年には米国横断後サンフランシスコから船で短期間の来日をした。歴史家荻原延寿氏は「遠い崖」の中で、この目的を、彼の日本駐在時に日本女性「とみ」との間に生まれた子供「於密(おみつ)」に会うため、と推測している。彼は署名に「密徳法」を使ったが、子供の名はその最初の文字「密」にちなんだという。英国グロスター文書館所蔵の二通の「とみ」の手紙では、早く帰ってきて、子供の成長を見てほしいとミットフォードに訴えているという。

市川三世史

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