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講演会報告:北岡伸一JICA理事長講演(要旨)

日時:2021.7.9 14:00~15:30
ZOOMに依るオンライン開催

講師:北岡伸一 JICA理事長
演題:「岩倉使節団と戦後日本」

西洋文明への旅は、他の国でも知識人、国王などが行なっているが、政府の要人がこれほど多く、しかも、長期間行った例は他にない。岩倉使節団について光と影という議論もあるようだが、光の部分がほとんどだ。もし、この岩倉使節団がなければ、征韓論は中止できなかったかもしれないし、台湾出兵もあのようにうまく収束しなかったのではないか。秩禄処分の大胆な決断もできたかどうかわからない。憲法観の収斂も難しかっただろう。

アメリカが最初の訪問国だったこともよかった。特に、伊藤博文は、「ザ フェデラリスト」(連邦政府を巡る政治論文集)に大きな影響を受けた。その中心的な論点は、国家の統一が必要である、多数者による専制をいかに防ぐか、常備軍が必要というものだ。

ビスマルクに会ったときの話(世界は弱肉強食であり、万国公法はあまり役に立たない)は有名だが、ビスマルクには国際法について、もう少し違った考えもあった。普仏戦争に際し、一番関心があったのは、英国がどう動くか、さらに海軍力の弱かったプロイセンは、フランスの海軍力を牽制するため、国際法を利用したことも留意すべき。日本の台湾出兵に対しても、大久保はボアソナードを顧問にして、国際法も踏まえて、厳しい交渉を行った。

明治憲法下での天皇の役割をどう考えるかも、なかなか難しい。久米邦武は、のちに「神道は祭天の古俗」という発言で帝国大学教授の職を追われた。天皇の行きすぎた神格化の結果で、岩倉使節団の精神に反するものだ。戦前、戦後を生きた牧野伸顕(使節団に随行、大久保利通の次男)は、ロンドンにいたとき、しばしば議会を訪れ、ディズレーリとグラッドストーンの論争を聞いた。ビクトリア女王がしばしば政治に介入することも目撃したようだ。こうした経験を踏まえて、牧野は宮中の国際化にも努めた。張作霖爆殺事件に際し、天皇は、田中首相を厳しく叱責し、首相は辞任したが、これは、牧野の意見によるものだったが、西園寺は、このような天皇の介入に消極的だった。

戦後、中曽根康弘はある団体の一員として、1950年に世界一周旅行に行くが、吉田首相は、「明治は岩倉使節団から始まったが、君達は、現代の岩倉使節団だ」と送り出した。中曽根は、戦争中、海軍士官として、パレンバンなどに行き、この旅でも中東で石油パイプラインを見ており、石油とシーレーンの重要性を痛感している。スイスでは、アジアでひどいことをしたと謝罪のスピーチもしている。スイスにいたときは、理髪店のラジオで朝鮮戦争の勃発のニュースを聞いている。ドイツとフランスの提携の動きも見ており、後年、首相になった際、まず、韓国を訪問し、ロン、ヤス関係を作った。国連では、朝鮮に派遣される国連軍からの報告の場にもいた。ドイツでアメリカの高等弁務官と会った際、とても人格者で、マッカーサーとは全く異なるのに、強い印象を受けた。アメリカとどう向き合うかについて、戦後の日本はマッカーサーのご機嫌を取るのに腐心したが、このような考え方を変えようとしたのが、岸首相だ。岸は、日本がアジアや国連でもっと活躍できるようにしたが、これはアメリカにも歓迎された。佐藤首相は、ベトナム戦争中にもかかわらず、沖縄の返還交渉をまとめた。岩倉使節団は、日本が国際社会でどのような位置に立つべきかを考えて行動したが、今、我々もそのような志で日本のあり方を考えるべきであろう。また、中曽根はアメリカでもドイツでも、自宅に招かれた際、夫が朝食を作ったり、皿洗いをするのに、驚いた。

(質疑応答)

-(明治維新のことは、学校であまり教えられないため、子供達がよく知っているのは、第1位が卑弥呼。明治の要人は下の方。何とかならないか。)

近現代をもっと教えることは大事。ただ、多くの学者は左翼。人民に寄り添って権力者批判をする方が楽だ。大事なことは、歴史を事実を踏まえて理解すること。例えば、戊辰戦争では3万人ぐらいしか死んでいないが、南北戦争の死者は60万人。また、明治維新の人材登用も見事だ。最も大事なポストに最も相応しい人を担当させた。

-(明治維新という、いわば革命を行なった後、あれだけの要人が海外に行ったのはすごかったが、この使節団の構想にはフルベッキの影響も大きいと思うがどうか。)

フルベッキのブリーフスケッチが影響したが、最初は、あれだけの規模ではなかった。段々膨らんでいった。また、10ヶ月のつもりだった。留守政府とは大きな改革はやらないという約束もした。何といっても、大久保と西郷の信頼関係があり、このような決断ができた。革命政府が国を離れるのは、大変なことで、アフガニスタンの場合、日本に招待された軍閥は一人しか来なかった。

-(我々は、今、岩倉使節団の人物像について、調べている。先生の「明治維新の意味」に倣い、「岩倉使節団の意味」のような形で、まとめてみたいと思っている。)

当時の留学生の中でロシアに行った人達がどうなったのか、興味がある。JICAでは、今、年間1000人の留学生を日本に招き、非西洋の国としての開発がどうあるべきか学んでもらっている。明治150年記念の際、安倍首相に支援をお願いしたら、3000人ぐらいどうかと言われたが、とても英語で教える人材がいないので、年間1000人としている。また、100ぐらいの途上国の有名大学にJICA chairを設け、日本の近代化を学んでもらっている。放送大学とも協力して英語の講座ビデオを15本ぐらい作っており、第1回は自分が講義をした。

-(戦前の日本国憲法の影の部分として、統帥権の問題がある。)

すべての制度には何らかの欠陥がある。戦後の憲法では、第9条第2項だ。こうした欠陥を改善していくのが、後世の責任だ。統帥権の問題も、伊藤が在命中であれば、このようなことは起こらなかった。伊藤が山縣より長生きし、また、原が山縣より長生きしていれば、こうしたことにならなかった。

-(西郷の征韓論だが、西郷は、戦争ではなく、説得しようと思っていたのではないか。また、歴史教育だが、戦後のいわゆる敗戦史観では、子供に自己肯定感が欠け、歴史嫌いになるおそれがある。)

西郷が主張した特使派遣をやると不祥事が起こる可能性が高かったというのが、今の通説だ。その意味で、西郷の訪韓を止める必要があった。西郷が一番苦慮したのは、明治維新で膨らんだ兵をいかに減らすかであった。本当にこれに悩んで、最後は、西南戦争で自爆してしまった。今の、政治の劣化、霞が関の低迷はご指摘のとおり。結局、教養を身につけること、その教養の根源は古典を読むことに尽きるのではないか。その意味で、この米欧亜回覧の会の皆さんは大変素晴らしいことをしておられると思う。

(文責 塚本 弘)

 

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