「フルベッキ」英書輪読会
日時:2021.5,19
ナヴィゲーター:井上篤夫
1. P348~P349 14行目 Dr.Verbeck~in Christ Jesus
病気悪化
一八九七年、フルベッキは春には名古屋、信州小諸、秋には青森に伝道に出かけたが、体調を崩し、医師から地方伝道を禁止される。東京で博士は説教を続け、最後の説教は二月二六日。
フルベッキ博士が行った最後の仕事の一つは、日本の天皇に述べる英語の式辞を準備すること。
亡くなる直前に身も心も打ち込んで行った仕事は、日本のキリスト教の現状についてロバート・E・スピア氏によって提示された十四の質問に対する回答。その抜粋が彼の一九〇四年の『Missions and Modern History』に載っている。フルベッキの名前は伏せられていた。
人にへつらわず真実の語り部であって、情愛豊かで思いやりある博士は、最後の発言をこの回答で述べている。
「よき日本人が『イエス・キリストのもとで新たに生まれ変わる』のを信じている」
→最晩年にフルベッキが寄せた文章
一八九七年(明治三〇年)一〇月二八日、(『福音新報』明治三〇年一一月三日号)「二五年回顧の教訓」と題して『福音新報』(明治三〇年一一月三日号)に回想録を寄稿している。
「二十五年の歳月は顧みるに短しとせず。人事の万端に於いて一世紀の四分の一という歳月は、多くの起伏盛衰を含めり。過去四分の一世紀に於ける日本基督教会の歴史もまたこの他に出でず。あるいは近々三年の短日月に会員の数を倍加せしとも再三に及べるあれば、之に反してその増加のほとんど見るべからざる時またこれありしなり。
これによって我等の直ちに接する疑問は、曰く過去二十五年の経験はそもそも何を教えるや、曰く是等は次の二十五年間を指導すべき如何なる艦(かん)戎(かい)をか与えると言ふにあり。ロングフェローの詩に曰く。
還らぬ過去を想を止めよ
そは全く徒(いたずら)なること無益(むえき)なることなればなり
若し之を想ふとならば少くとも其の頽廃せる
遺物の上に登りて、
更に高き或(あ)るものに達せよ
2. P349 15行目~P351 下から4行目 Probably one of ~Dr.Amerman.
最晩年に書かれたコッブ博士宛の手紙
一八九八年二月二四日 東京葵町
「私の健康が優れないことにご同情の言葉を頂き、本当に有難うございます。この国で暮らした三十五年の間、合わせて一週間も病気で寝込んだことはありませんでした。今。ひどく「不快」で少し憶病になりすぎているのかもしれません。いずれにしても、頻繁に病気をする人よりも、おそらくもっと不快感を感じています。私の病気の原因は前立腺肥大で、それで膀胱の炎症が起こりそうな具合なのです。(中略)
ここ数週間、少し暖かさが感じられ具合もよくなってきています。事実、近場の地方で伝道旅行の計画を立てられそうに思います。地方旅行での新鮮な空気と運動は、いつも私の健康によいのです。少ししたらもっと遠い地域、即ち高知と、我々の大きな伝道区である九州からの依頼に応えるほどの体力がつけばと願っております」。
「キリスト教会の歴史の中で重要な逸話(私の十四の回答の中で『証言』として言及しています)を一つ送れるように準備をして、タイプも終わっているのですが・・・その中で主要人物として登場しているので、原稿を送るのは彼(インブリー博士)に見せてからにすべきです。そうすれば、この件に関して彼がこの原稿を妥当と思えば、それを参考にして彼自身の微妙な立場を弁護できます。私は人の背後に隠れてそういうことができなかったのです」
→スペア氏に答えたとされるフルベッキの回答
Missions and Modern History
スペアの十四の質問は一八九七年中に受けていたと思われる。回答を二月二四日のコッブ宛の手紙といっしょに船便に載せたので残った。その中にあるキリスト教の歴史の逸話について言及しているが、この時点ではタイプ原稿の段階だった。一〇年前の下書きでは人物名が生で記載されていたのを仮名に直したものと思われる。第十六章「An Extraordinary Episode: in the History of the Church of Christ in Japan(After rough notes of the time_1888)参照。
3. P351 下から3行目~P354 9行目The machinery of~yet written”
最期
一八九八年の春が近づくにつれ、肉体の機能は衰えてきた。
三月三日、伊豆への伝道旅行の打ち合わせをバラ氏とするために横浜に出かける。
その日は前日より寒かった。
ジェームズ・バラ師がニューヨークのコッブに送ったフルベッキの死去と葬儀の模様を伝える手紙(所在確認中)。The Japan Evangelist一八九八年四月号に載った追悼文(RCA所蔵)とは異なる。
「ちょうど一週間前、念入りに作った小さな地図を携えて私の所に来ました。伊豆の伝道地でよさそうな場所を探して、更に広く伝道区を増やす試みをするために旅行をしたかったのです。私の書斎で彼はドクター・フェストに会いました。(中略)
山手を上って来るときに胸のあたりに鋭い痛みを覚えて、何度も立ち止まらなければならなかったと話していました。ブラウン博士は同じ病気で亡くなったのだとも言っていました。彼も私たちも、それがこの世での最後の打ち合わせになろうとは夢にも思いませんでした。一週間後、おおよそ同じ時間に、彼の遺体は献身的な人たちによって、青山の墓地に運ばれることになったのです」
「本当に突然でした。埋葬などもすべて終わり、現実というよりは夢のように思われます。定例会で彼がいない空白を感じるようになるでしょう。ミッション関連のあらゆる評議会で、すべてのミッションの総合的な相互関係において、彼は教導的役目を担う長老とみなされていました。この前の軽井沢会議の進行に際してもそれが表れています。彼は会議を終始見ているだけだったのですが、ミッションと日本キリスト教会との協同に関して、彼の助言は評議会の活動に多大な影響を与えています。また、彼の意見はスピア氏の報告書にそのまま反映されています。私が思うに、今まで書かれたどんなものよりも、フルベッキ博士はその報告書に満足していました」
→三月一〇日、その日は暖かかった前日に比べて三度と急に冷え込んだ。正午、自宅でいつものように自宅のテーブルで軽い昼食とティフィン(紅茶テイストのリキュール)を摂っていた。
「ガタン」という音に使用人が部屋に入った。フルベッキは椅子に座ったまま息を引き取った。心臓発作が襲った。享年六八。
4. P354 10行目~P356 9行目Much of~the services.
葬儀
バラ氏は博士死亡の悲しい知らせを電報で受け取るやいなや、ただちに東京に出かけた。葬儀の準備と芝教会での式はほとんどバラ氏が執り行った。
「フルベッキ嬢はとても冷静で、日本人などすべての弔問客を迎え入れていました。そして、役人や博士の友人たちに送る多くの招待状の準備をしていました。百人か二百人くらいに発送したでしょうか。断ることのできない外国人が多くいて、結局、学校関係者とその他『大勢の人々』に来ないように頼まなければなりませんでした。(中略)
教会は役人、外国人、日本人招待客であふれ、回廊は聖職者と労働者で、女性側は女性信者で一杯でした。牧師和田(秀豊)が詩篇十九篇の日本語を読み、続いてデーヴィッド・タムソン博士が英語で祈りを捧げました。それは威徳、畏敬、信仰、希望を感じさせる、大きな救いとなる祈りでした。日本語の賛美歌、チューン・ウォード、詩篇四十六篇が続き、井深(梶之介)総理による日本語の演説がありました。その後を私が英語で引き継ぎました」
バラの追悼文(Evangelist4月号掲載)これはRCAの北日本支部専用の便箋が使われている。By Rev. James H. Ballaghと赤で筆者名も。赤字が数箇所に入っている。葬儀の式辞用に用意したことを示していると思われる。Written March 11th 8-11p.m.およびMarch 12/98の日付がある。Copied March 19thp.m.とも。
「宮内省式部長官から代表として派遣されたヤマダ氏はあの有名な勲章を持ち運ぶために参列しました。勲章は式の間、棺の上に飾られクッションに置かれていました」
5. P356 10行目~P357 12行目 “The procession~the word. 祈祷
「墓地でブース師が印象的な埋葬式の言葉を読み、最初の長老で牧師のY・小川師が日本語で祈祷した。日本語での『イエスのもとに眠る』の賛美歌の後、スコットランド一致長老会のヒュー・ワデル師による終わりの祈祷があった。夜が更けるとともに寒さが増し、悲しみのうちに家路につきましたが、悲しみの中にもフルベッキ博士の業績の成果と、神がこの日に与え給うたすばらしい慈悲を思うと、満足感が感じられました。私が家に着いたのは午後八時頃でした」
天皇陛下から五百円の御下賜金が下された。
6. P357 13行目~P360 16行目”The city~and respect”.
墓地
東京市はフルベッキ博士の遺族に、彼が埋葬された小さな一画を永久に貸与する旨通知した。 三つの自国を持ちながらも彼には国籍がなく、彼は疲れた体を休めるのに最後の安息の地として日本を見いだした。
天皇陛下に聖書の日本語訳を渡すことが現実の運びとなった。 天皇や日本国民からこれほど尊敬されたフルベッキが贈った聖書を天皇陛下が喜んだ。
式は日本語と英語を交えて、あるいは交互に話された、葬儀費用を払うために五百円がエマに下されるという通達があった。
これは日本の指導者たちと日本国民からこれほど愛され尊敬された人物に、心からの感謝と弔意の気持ちを有した出来事だった。
7. P360 17行目~P362 16行目As the fitting~his last.”
弔辞
『萬(よろず)朝報』
「彼は同国人でもなく母国人でもない日本の人々のために、四十年に及び途切れなく惜しみない奉仕をし続けた。読者にはこのことの意味を考えて頂きたい。我々の国民の一人でも、隣国人、たとえば朝鮮の人のために、このように尽くす人物がいるだろうか。
四十年に及び黙々と働き続け、金銭や賞賛を得るためにでなく、彼自身と神のみぞ知る志を持って尽くしたのである。日本に来て教義を広めるという仕事を別にしても、我々が持ちたいと羨望するようなに忍耐力が博士にはあった。おそらく母国オランダの不僥不屈の精神を博士は所持していたのであろう。しかし、彼の喜び、充足、柔和があり、物理学的に説明できないような力源を保持していたように思われる」
徳富蘇峰が創刊した日本で初の総合雑誌『国民之友』(明治三一年四月一〇日発売・三六八号)も追悼記事を載せた。。
「日本に住すること四〇年にして、最初に播きたる文明の種子が萌芽し、発育し、花を開き、果を結びたるを目撃したるは、彼の満足する所なるべし。彼が日本の恩人として教師として知己として最後に至るまで、日本の幸運を祈願したるは、日本国民の永く記憶すべき所也」この恩人を我々国民は決して忘れてはいけないと結んだ。
『反省雑誌』
「フルベッキ博士は明治維新前に来日した宣教師である。三十年以上にわたり、福音伝道と教育に多大なる貢献をした。博士は確かに日本の友人であることに満足していた人であった。外国での仏教伝道に著しい成功がない我々仏教徒は、この高徳の伝道師の例を見て恥ずべきであろう」
8. P362 17行目~P364 21行目 Even the Buddhists~the world”
ミス・リラ・ウィンのEvangelist六月号掲載の文章
「フルベッキ博士は自分のまわりの人たちに強い影響を与え心を捉えるのに、欠点を見だして批判するのではなく、温和さを持って接していました。博士がここに来たことで、私は自分自身もっと高潔でよりよい人間になりたいと思い、私の性格にある狭量さや批判的な部分を克服しようと思いました」
→ミス・リラ・ウィン
アメリカ改革派宣教師。一八八二年よりフェリスで英語、博物学、植物学、聖書を教えた。
一八九二年にフェリスを辞して、ミラー夫妻のいる盛岡に青森で伝道活動をする。
ニューヨークの『インディペンデント』紙は(一八九八年三月一七日付け)フルベッキの経歴を辿ったあと、こう記している。(Evangelist六月号掲載)
「強固な資質と精緻な教養を兼ね備えた人間が、勇気を振るって全精力を集中したとき、いったい何をなし得るのか、その実例がここにある。フルベッキ博士は、新生日本の未来に永久に残る銘を刻んだのだ。東アジア全体にとって衝撃ともなり、指針ともなるべきこの国は、今後何世紀にもわたって博士の影響を感じつつ、その名に敬意を払い続けるだろう。この素朴で、謙虚で、堅忍で、学識深く、献身的な宣教者は、イングランドでの聖オーガスティン、アイルランドでの聖パトリック、そしてゴート族に布教したウルフィラと同様に、記憶から失われることはない。これらの系統にある偉大なキリスト者たちは、失敗に終わることもなければ、世界に奉仕する機会を逃すこともない」
9. P364 22行目~P365 7行目 Let this final~of heaven.”
シェアラーの追悼文。(Evangelist六月号掲載)
「すなわち博士の人生を最も端的に表すのは、聖書の次の章句である。『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は、何も知るまいと決めていたのです』(「コリントの信徒への手紙一」2−2)。すべての行動を決定づけていたのは、主の御業へのひたむきな献身だった。なかでも第一の喜びとしていたのは、説教をすることだった。その才能に恵まれていたので、どの土地でも注目の的となった。フルベッキの主たる能力は、生き生きとした描写力にあったといえよう。身ぶり手ぶりを交えながら、天性の美声で情景を活写することができた。そして、論理的に反論の余地のない真理へと帰結させていった。日本の聴衆は、例え話が多い説教を喜んだ。どこに行っても、会って話を聴こうと群衆が押し寄せた。
“Without him, Japan will not seem like itself. Because of him Japan will grow less like itself, and more like the kingdom of heaven.”「フルベッキが日本にいなかったなら、今の日本にはなっていなかっただろう。日本という国が、本来の姿からより神の国へと近づいたのは、彼のおかげである」
Without him, Japan will not seem like itself. Because of him Japan will grow less like itself, and more like the kingdom of heaven.”
「彼なしでは、日本はそれ自体のようになることはないだろう。彼によって、日本はそれ自体のように成長するというより、より天の王国のように成長するだろう」
再帰代名詞の「itself」は、カントの観念論の物自体(Ding an sich, 英語ではthing in itself)を踏まえて使用しているのではないか。つまり、「本質」とか「実体」とか「本体」という意味で用いている。
これを考慮して一文目を深読みして解釈すると、『日本は、制度や産業などの外面においては近代化に成功(日清戦争の勝利など)して、世界から近代国家であると「見做される(seem)」ようになっているが、フルベッキなしでは日本が「実質的」に近代化することはなかっただろう』という意味に取れるように思われる。
そして、二文目は『日本は、文化などの内面は「本質的」には封建的な部分が多いが、フルベッキの宣教のおかげで、明治維新以前の古い価値観のまま国が成長するというのでなく、教化(クリスチャナイズ)によって、天の王国に向かって成長するであろう』ということではないかと思う。
一九一一年カリフォルニアで亡くなった妻のマリアの亡骸は日本に移された。そして現在、フルベッキ夫妻は青山霊園に眠っている。外人墓地の南一種イ六側、四六、四七号。オランダ式の細長い白い墓石がある。
一八九九年(明治三二年)一二月、フルベッキの教え子たちによる募金で、青山霊園に紀念碑が建立された。墓碑銘には略年譜が記されている。
In Memoriam Guido Fridorin Verbeek Born in the Netherlands Jan.23,1830 Arrived in Japan Nov.7, 1859. Died in Japan March.10.1898
この紀念碑はフルベッキ先生によって学んだ知友たちにより一八九九年に建立された。
マリアの墓標には、姓名と生没年だけが記されている。( Maria Verbeek 1840-1911 マリア・フルベッキ 一八四〇~一九一一
終焉の地、赤坂葵町には米国大使館別館があり、今日、フルベッキが住んだ二番地には高層ビルが建ち、その跡は判然としない。
二〇一八年九月、残暑厳し日、私はフルベッキ夫妻のお墓参をした。小石が敷き詰められた墓前には洋ラン(赤紫のデンファレ)が供えられていた。胡蝶蘭のように瞬時に視線を惹きつける派手さはないが、人の心を深くとらえる魅惑的な花である。
一九〇九年(明治四二年)秋、渋沢栄一を団長とする五〇名余の実業家の一行が初めてアメリカ各地を訪問した。民間から日米貿易を促進させようとする画期的な経済使節団として知られる。
シアトルを出発した一行は鉄道で米大陸を横断、九月一九日にはミネソタ州ラファイエット倶楽部を訪れた。その時、就任したばかりのタフト大統領は遊説日程を変更して、一行を歓迎した。タフト大統領は当時すでに何度も訪日して明治天皇にも夫妻で芝離宮に招待されたほどだ。一行の訪問は大きく報じられた。
それから三週間後の一〇月九日、使節団一行はニューヨーク州シラキュース市の駅に着いた。出迎えたのは長身の青い目の男だ。
「渋沢男爵、長途の旅、ご苦労様です」と流暢な日本語で歓迎の挨拶をした。その人物こそフルベッキの長男ウィリアム・ヴァーベックであった。ヴァーベック校長は一行をマンリアス・ミリタリー・スクールに案内した。
校庭の一画に日本式庭園があり、茶室が設えてある。さらにウィリアム夫妻は一行を寿司と羊羹でもてなした。
さらに渋沢一行を驚かせたのは、グリフィスが「歓迎」の挨拶をしたことだった。グリフィスはアメリカに帰国後シラキュースの南にあるイサカ大学で講師をしていたのだが、渋沢を歓迎するために駆け付けた。
井上篤夫記