日時:3月18日(土)13:30~16:30
場所:国際文化会館401
講師:石井一也氏(香川大学法学部教授)
「近代」における人類による経済発展は、未曽有の物質的豊かさを実現したが、同時に資源の枯渇と環境破壊を伴い、幾多の生物種を絶滅に追いやるプロセスであった。本報告では、こうした時代におけるガンディー思想の意義をイヴァン・イリイチのいう「コンヴィヴィアリティ」(自立共生)の概念を軸に検討したい。そもそもガンディーは、機械による経済発展が、西洋諸国による非西欧社会にたいする帝国主義支配とその後の世界戦争へと展開する経緯をみて、物質主義を特徴とする近代文明批判した。「機械は近代文明の象徴で、大きな罪を代表している」。彼のいう「真の意味での文明」とは、必要物の拡大ではなく、その慎重なそして自発的な削減によるものであった。こうした姿勢は、利己心、資本蓄積、分業、自由貿易、帝国主義を是認するように展開した経済学とは大きく異なっている。
「近代」を乗り越えるためにガンディーが展開したのが、チャルカー(手紡ぎ車)運動である。この運動は、一般に低生産性、低賃金、低品質の観点から否定的に評価されてきたが、逆に高い雇用吸収力をもっていた。機械と比べて生産性の低い紡ぎ工や織工の生業を支えることは、あたかも「稼ぎのない親や子供を養うことを恵みと考える」のと同様であるとの考えにもとづいていた。
他方、ガンディーの受託者制度理論は、富者を神から財産の信託を受けた「受託者」とみなす考え方で、マルクス主義にもとづく革命・階級闘争論に対置された。このためマルクス主義者らは、これを体制擁護論として批判した。しかし、そこでは資本家にチャルカー運動を支援する負担が課せられていたことなどを考えると、富裕階級の擁護よりも貧者救済に力点が置かれていたことがあらためて理解される。
ガンディーは、これらの運動や理論を通じて、究極的には70万のインド村落を自立させることを目標としていた。それは、人間の身の丈に合った簡素な協同組合的社会である。「独立インドが泣きうめく社会にたいして、その役割を果たせるのは、その何千という田舎屋を発展させ、世界と平和を保ちつつ、簡素で気高い生活を採用することによってである」。
タゴールやセンは、こうしたガンディー思想に批判的だった。センは、チャルカーが「インフレ的で資本蓄積にマイナスに影響する」とみたが、ガンディーの意図は、「資本蓄積」ではなく、人間の身の丈の経済において貧者を救済することにあった。したがって、経済発展に寄与しないことをもってチャルカー運動を否定的に評価するのは妥当ではない。
センは、グローバルな経済的繁栄によって貧困を解決するシナリオを描くが、かならずしも貧困と富裕の因果関係を明確に意識しているようには思われない。ガンディー思想に照らしてみると、持続可能な社会のためには、まず「特権的な人々」が「必要物」を自発的に削減してゆき、貧者の「自由」の拡大はそれと同時に図られる必要がある。実際、人類が生き残りをかけてグローバル化の流れをより良い方向に転換する契機は、センではなくやはりガンディーの思想において見出せる。
人間社会の経済発展と平和について考えるとき、ガンディーの次の言葉は、きわめて重要な意味をもつ。「地球は、すべての人々の必要を満たすのに十分なものを提供するが、すべての人々の貪欲を満たすほどのものは提供しない」。地球という限られた空間において、人間の間にコンヴィヴィアリティを実現するためには、グローバル社会における貧者の「潜在能力」の開発が、富者の「必要物」の削減とともに行われる必要がある。
スミスからセンにいたる経済学は、おおむね成長経済(右肩上がりの経済)において人々を養う方策を考えてきたが、ガンディー思想にもとづく新しい経済学は、縮小経済(右肩下がりの経済)においてこの課題に取り組もうとするものである。しかしその課題は、成長経済をこれまで支えてきた利己心、資本蓄積、市場メカニズム、国家主導の開発など、一連の「近代」の諸価値の対極に向かいながら、同時に「近代」において未曽有の規模に増大した地球人口を養うというきわめて困難な作業を意味する。
(文責:塚本)