日時:令和3年2月17日
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15章 説教者と翻訳者(概要)
(1)聖書和訳の意義と伝道開始
フルベッキは1880年代(明治13~23年)聖書和訳に注力した。日本語版刊行はアメリカ、イギリス、スコットランドその他福音諸団体が協調して進められた。フルベッキは翻訳作業に週6日のうち5日をあてる。翻訳の仕事はフルベッキに伝道心を呼び起こし、日本各地に伝道旅行をさせる。翻訳と伝道は相乗効果をもたらす。秘められた宣教の能力について次のように語っている。「聖書の真実に光をあて、聖書の原作者の文言を用い、神が<われわれに告げていること>を示すことは素晴らしい技である。」
1882年(明治15)5月、信州小諸、上田に伝道、田村直臣を同伴。その後、九州各地8か所に24日間伝道旅行する。※田村直臣(1858~1934)は明治7年受洗、明治15年米オーバン神学校等で学び、同19年帰国。数寄屋橋教会牧師。
(2)当面の仕事と宣教のあり方
1881年9月の手紙に息子が誕生し、3人の息子と娘1人の親となる。当面の仕事を報告。①日曜の説教 週2回 ②一致神学校(明治学院の前身)での証詞学および説教学 ③自宅での聖書講義週1回 ④華族学校での講義(倫理学月3回) ⑤長老会(教会役員会)用翻訳 ⑥臨時および定例の会合出席 ⑦地方伝道旅行。さらに日本社会と政府のための活動を報告する。長崎時代、政治学を教えた大隈と副島が大臣や参議となっているほか、教え子で外務省や内務省で重要な地位にある者も少なくない。そのためフルベッキの講義を受けることにより、然るべき地位に就こうとする者もいる。日本の発展に寄与するには従来の宣教のやり方では効果が上がらないと思われ、宣教のあり方を時代と共に変えていかなければならないと考える。
(3)華族学校での式典演説
華族学校長からの仕事の負担増要請を辞退したが、同学校の記念式典に招待され演説も依頼される。「学生への勤勉の薦め」と題し天皇名代の皇子、岩倉卿、元大名華族、皇族方、一般の人びとの前でキリスト教の公然の代表者として演説できたことを神に感謝する。
(4)華族学校辞任と不興和音
フルベッキは華族学校を辞任する。これまで宣教から離れていたことを反省し、聖書の翻訳と伝道に取組む体制に入る。この当時、来日した外国人からフルベッキの伝道活動に注文を付ける者がかなりいる一方、活躍を嫉む者もおり、中傷も浴びせられた。これらに対しフルベッキは日本の諺にある「カエルの面に水をかける」といったかたちで受け流していた。
(5)外国人宣教師との関係
手紙に記す。「従来やってきたことと現在との相違点は、これまでは独りで身を処し自分の判断ですべて処理してきたが、今では様々の関係者がおり、相互の理解が難しい。この20年間、ロビンソン・クルーソーのような生活をしてきた結果だと思える。日本人との間にはそうした気持ちはない。それは宣教が日本人に恵みをもたらすとの確信があるからとも考えられる。アジア協会への加入も再三勧められている。いずれにしろ変化する時代と環境に適切に対応していける能力を身につけたいと願う。」
(6)「日本プロテスタント伝道史」作成と高崎独立教会
日本におけるプロテスタントの歴史を把握することが日本の宣教に必要なことと考えられ、宣教師たちの協議会が開催される。フルベッキは、満場一致の推薦によりその任務につく。1882年11月各教派への資料収集の依頼事項と依頼文書を準備し、主題概要と歴史的経緯、教育面、医学面、各種文書等の資料提供を要請する。
資料提供の依頼に対し大量の文書が提出される。フルベッキは数か月かけて資料を読み、伝道の全般的歴史、各教派の各年次資料をまとめた原稿を作成した。さらにプロテスタント全体のほか、カトリックおよびギリシャ正教の神父数、信徒数なども一覧提示した。
まとめられた伝道史資料文書は、1883年4月、大阪での宣教会議で全文朗読され、午後から夕刻まで長時間を要した。※この伝道史資料文書は、『日本プロテスタント伝道史 明治初期教派の歩み (上)・(下)』(G.F.フルベッキ著、日本基督教会歴史編纂委員会編訳 1984年 教文堂)として刊行されている。伝道史の調査資料作成中、フルベッキは高崎に伝道旅行し、高崎独立教会の創設に強い関心を寄せる。高崎に大勢の宣教師と新しい日本のキリスト教指導者が一堂に会し、組合派教会と長老派教会との「統一計画」が提案されたものの成就しなかったと30枚もの手紙に記す。
(7)福沢諭吉とキリスト教
1884年7月、フルベッキは米伝道局への手紙にジャパン・メール紙を同封し、その中でこれまで日本へのキリスト教導入に反対であった福沢諭吉が従来の考えを変えたようで、このことは日本のキリスト教に広範な影響を及ぼすと伝える。そして福沢の人物像と日本人への影響力のほか、福沢の著作活動と国からの顕彰と爵位返上のことなど伝えている。
(8)四国伝道旅行での伝道会場としての日本の劇場と欧米の劇場との違い、「壮士」の政治活動について
(9)九州伝道旅行とスタウト師のトラブル
九州伝道旅行には長崎に教会を創設したスタウト師を同伴したほか、フルベッキの最初の受洗者となった村田元佐賀藩家老の故郷、佐賀を訪れる。スタウト師は、当時を回想し、伝道集会後ホテルに向かう途中、少年から嘲笑しながら下駄で背中を撃たれ、心の傷が消えるまで長い時間がかかったという。
(10)愛息の死と聖書翻訳完成
1884年12月、フルベッキは愛息ギドーを16歳で亡くす深い悲しみに見舞われる。
1889年頃、フルベッキは伝道局の費用で一時帰米が予定される。愛息逝去から一時帰米までの間、旧約聖書完成など様々の宣教の仕事を処理した。聖書翻訳、讃美歌改定、神学校での教育、教会の組織化と維持、伝道旅行などである。中でも特別の仕事は旧約聖書詩篇の翻訳があり、愉しい作業であった。
(11) 説教ノートと宣教指針
フルベッキには「ヴァリア」(ラテン語で文芸作品雑集)という雑録集があり、宣教に関連する逸話、ノート、例話などが集められている。例えば「人数ではない」という見出しには、宣教にあたり大事なのは受洗や信仰告白した人数にこだわらないこと、大事なのは活力であり、近代科学と政治を理解し成長している者、有用かつ福祉的施設をつくれる有力な者、社会の改善向上に資する力のあること、神の御心とことばに近いこと等々がメモされている。
(12) 一時帰米と故郷訪問
1889年1月、一時帰米。アメリカ西部と東部の改革派教会で話しをする。7月ニューヨークからヨーロッパに渡る。オランダの主要都市を訪れ、教会で話をし祖国訪問を大いに愉しむ。8月、右半身に軽い麻痺を生じたがすぐに回復する。1891年1月、アメリカを経由してサンフランシスコから日本に戻る。日本へのオセアニア号には新渡戸博士夫妻も同乗していた。
(ナビゲーター 大森東亜)