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小室信夫/安川繁成/高崎正風

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日時:3月26日(金)10:00~12:30
ZOOMによるオンライン開催
内容:

小室信夫(こむろ しのぶ)
1839‐1898 京都 33歳 左院少議官(後発隊)

尊王攘夷家自由民権運動から実業家、貴族院議員へ
天保10年(1839)京都与謝郡の生糸縮緬商兼廻漕業の豪商・山家屋の一族、小室佐喜蔵の長男に生れる。幼名: 利喜蔵、信太夫、彰。 号:訒葊(じんあん)

山家屋の京都支店の監督主任を任されるが、次第に尊皇攘夷運動にのめりこみ、文久3年(1863)、平田派国学者が中心となった足利三代将軍木像梟首事件(京都・等持院の足利尊氏、義詮、義満の三像を三条河原の獄門台に持ち出して曝し首にした事件)に絡み、「高札」に、逆賊との文意の斬奸状を起草したのが小室と言われる。京都守護職(松平容保)に追われて、九州、四国を転々と逃げ回り、最後に、盟友の徳島藩士・中島鍚胤と共に徳島藩邸に逃げ込んで自首し、藩邸内で5年間幽閉される。

明治維新後、佐幕藩だった徳島藩は、小室を釈放し家老並み(大小姓)に任じて、新政府に徴士として出仕させた。明治2年、岩鼻藩(群馬県・埼玉県)権知事となり、改革的、改良的県政を行う。明治3年、岩倉具視の内命で徳島藩大参事に任じられ、阿波洲本の稲田問題(庚午事変)の事態収拾にあたった。明治4年、左院少議員となり、明治5年岩倉使節団の後発隊・左院派遣の一員として、欧州の視察に出かけて、とくにイギリスの立憲政治を学んで帰る。明治6年9月ごろ帰国し、左院三等議官に就任したが、すぐに辞職して明治7年の板垣退助、後藤象二郎らの『民選議院設立建白書』の起草に関わり、自由民権運動に傾倒していく。日本初の政党『愛国公党』の設立にも参加。徳島地盤の『自助社』を創設。明治8年、井上馨からの依頼で、板垣退助と木戸孝允との仲介に関与して、大阪会議と地方官会議の実現に寄与する。

明治15年以降、北海道運輸の設立。共同運輸の創設役員として参画し、郵便汽船三菱会社と共同運輸の壮絶、血みどろな競争の末に両社が合併して日本郵船が誕生するとその理事に就任した。その他、積極的に実業家としての道を進み、東京株式取引所、第八十九国立銀行、第百三十銀行、奥羽鉄道、京都鉄道、小倉製糸など会社の起業にも絡んで、それらいくつかの重役や社長も務めている。

晩年は、明治24年より明治31年の死去迄、貴族院勅撰議員を務めて、明治30年には従五位を叙勲している。平安神宮の拝殿前広場の手水鉢は,彼の寄贈による。

次男・小室三吉は、一緒に、蜂須賀茂詔と共に英国留学してユニバーシティ・カレッジに学び帰国、東京商法講習所卒後、東京海上保険、三井物産上海・ロンドン支店長、三井同族会理事を務めている。

担当:小野博正

安川繁成(やすかわ しげなり)1839‐1906 群馬

-官僚、政治家、実業家、新聞学のパイオニア、統計学の父
 天保10年(1839)3月、上野国新田郡(現・群馬県太田市)生まれ。陸奥棚倉藩士(郷士とも)・岩崎八十吉の四男。後に白河藩士・安川休翁の養子となる。安政元年(1854)江戸に出て大鳥圭介に師事。帰藩して作事方、町方調役などを歴任。元治元年(1864)開成所、大学南校に学ぶ。慶應3年(1867)慶應義塾に入塾し大村益次郎の知遇を得た。慶應義塾卒業後、戊辰戦争では岩倉具視の知遇を得た。

維新後、版籍奉還(明治2年、1869)の際に森有礼に推されて行政官になる。その後、岩倉具視に命じられて岩倉使節団に加わることとなったが、本隊とは別に6か月後の明治5年(1872)、西欧各国の議会を中心とした立法・行政の諸制度を調査・研究するための左院視察団の一員(五等議官、少議官・高崎正風に随行)となり渡仏した。その中で安川はイギリス議会の詳細な調査をした後、明治6年(1873)9月に帰国した。帰国後その調査結果を明治8年(1875)『英国議事実見録』に纏めるとともに、エモス(阿謨私」著『英国政治概論』、『英国新聞紙開明鑑記』を出版した。この年は「讒謗律」が交付され末広鉄腸や成島柳北らが投獄された年であり、そんな時期に、新聞の必要性、言論の自由、我が国にも英国並みの新聞を期待するとの論を張って、権少外史の役人でありながら刊行したもので、「新聞学のパイオニア」(藤原恵氏)との現在の学者の評価もある。また、官庁が複式簿記を採用した際に『現行官庁簿記法』も編纂している。

その後、工部省書記官、会計検査院部長、東京市参事会員を歴任した後、明治14年(1881)安場保和らと「私設鉄道保護に関する建議」を岩倉に提出し、日本鉄道会社設立発起人の一人となる。同社監査役、愛国生命保険社長を歴任した。

会計監査院部長の時の明治14年大隈重信が統計院長に任命され、その下に矢野文雄が配されたが、政変で大隈・矢野が政府から去り、安川が統計院幹事を兼務して、明治15年(1882)に第一回『統計年鑑』の発行に漕ぎつけた。彼が「統計学の父」とも呼ばれる所以である。因みに、明治4年の岩倉使節団が回覧中に持参使用した『日本国勢要覧』は、皇室関係、面積(幅員)、歳出入、輸入出、府藩県。鉄路、度量衡、貨幣、神社などごく基本的資料であるが、権少史・安川繁成が編纂したものである。

明治31年(1898)第6回衆議院議員総選挙に当選し憲政本党に所属した。明治39年(1906)腎炎と糖尿病のため没した。享年68。墓所は青山霊園。正三位、勲三等瑞宝章。

なお、安川は明治17年(1884)港区西麻布に自らの名前をとった浄土宗智明山攝取院繁成寺を開基した。開山は安川氏の遠祖の智明上人、本尊は阿弥陀如来。この寺には秋月子爵の室や毛利公爵の母親などの家族の婦人たちが集まって、念仏を唱えながら鉦を打っていたため俗にカンカン寺と呼ばれた。また、北白川宮能久親王や柳原愛子などの皇室の人々も参詣したと言われる。
(出所:Wikipedia、アジ歴 地名・人名・出来事事典他)

担当:栗明純生

高崎豊麿(正風)(たかさき とよまろ)
1836‐1912 鹿児島 36 歳 小議官

幕末の志士 桂園派歌人 作詞家 御歌所初代所長
薩摩藩士・船奉行高崎五郎右衛門温恭の長男として鹿児島に生れる。通称:佐太郎。 伊勢。豊麿。左京。号:宝義堂。
嘉永 2 年(1849)、お由羅騒動(高崎崩れとも)によって、首謀者の父・五郎右衛門 が切腹し、正風も連座して奄美大島に流刑となる。2 年後赦免され、使番、藩応接掛、 京都留守居役附役、山階宮(晃親王)の諸大夫格など歴任。

文久 2 年(1862)、島津久光に随行して上洛。久光の命で会津藩公用方秋月悌次郎に密かに接触し、文久 3 年八月十八日の政変(薩会同盟)を成功させ京から長州藩を追い落とす(七卿落ち)。その功で、京都 留守居役を命ぜられるが、慶応 3 年の西郷隆盛、大久保利通らの武力倒幕に反対し平和的大政奉還を支援した為に維新後は不遇をかこった。

明治 2 年から明治 4 年まで、薩摩藩の垂水の業生管理を し、「へし児」(妊娠中絶)対策を施した。明治 4 年、新政府に出仕、明治 5 年の左院少議官として、 岩倉使節団後発隊に参加して、2 年近く欧州諸国を視察した。

明治 8 年宮中の侍従番長。明治 9 年御歌掛を務める。若いころ、薩摩藩士で、京都・ 桂園派の八田知紀(1799‐1873)や香川景樹に学んだ。師の八田が正風の宮中での活躍の場を作ってくれた。明治 10 年には 明治天皇の歌の点者となる。明治 21 年には明治天皇のご寵愛を受け』て、御歌所初代 所長に任命され、終生その職に在った。天皇の和歌10万首、昭憲皇太后の作歌4万首 を点じたとされる。明治20年、明治維新の功で、男爵を綬爵。 明治23年、皇典講究所所長・山田顕義の懇請を受けて、初代国学院院長を明治26 年まで務める。明治28年、枢密顧問官を兼ねる。桂園派は古今集の流れを継ぐ,清新優雅な作風で、調べを大事にした.歌集『埋木廼花』『たづかね集』(1926)があり、『高崎正風演説筆記』(1901)『うたものがたり』(1912) の著作がある。又、作詞家として『紀元節』(作曲:伊澤修二・・雲に聳ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も なびきふしけん大御世を 仰ぐ今日こそたのしけれ)。『勧学の歌』(作曲:奥好義)。『水漬く屍』(作曲:吉本光義)を手掛けている。

明治45年(1912年)2月28日死去。77歳。
墓所は青山霊園。
正二位勲一等旭日桐花大綬章を授けられた。
(出所:Wikipedia、アジ歴 地名・人名・出来事事典他)

担当:吉原重和

 

 

 

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