日時:令和3年2月26日 10:00~12:30
内容:司法省総括と左院総括
1.司法省総括
司法省明治4年に、太政官政府の右院の中に設置された八省の一つの行政府として、創設され昭和23年に法務省と改称されるまで続いた長い歴史を持つ。
先発隊の、佐々木高行(司法大輔)理事官を始めに、岡内重俊、中野健明。平賀義質の4名と、後発隊として、明治5年に出発した8名:河野敏鎌、鶴田晧、岸良兼養、井上毅、益田克徳、沼間守一、名村泰蔵、川路利良で合計12名の、岩倉使節団最大の陣容であった。
初代司法卿であった、江藤新平が、後で述べる左院を含めた「この国のかたち」作りにどんな構想を以って、大勢の司法団員を送り込んだのか、更には、その団員の一人であった、井上毅が司法行政を超えて、大法官的役割を個人的に演じて、二院制の形式をもった元老院・地方官会議の発足の推進や、明治23年発効の天皇主権に位置付けた大日本帝国憲法制定や民法の改定、皇室典範・教育勅語、軍人勅諭への関与を深めていく道筋も、広義の司法省の役割のうちとして総括した。
2.左院総括
左院の存在は、明治4年から明治8年の「立憲政体確立の詔」で、元老院と地方官会議の、過渡期的二院制の発足で廃止されるまでの、たった四年間である。従って、知名度も薄く存在意義もほとんど顧みられなくなったというのが実情であろう。
然しながら、左院とは「五か条の御誓文」(由利公正起草、福岡孝第修正、木戸孝允加筆、岩倉具視、三条実美裁可)で説く、『一つ、広く会議を起し、万機公論に決すべしと 二つ、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし』を追及して、明治政府が最初に「公議所」を作り、次に「集議院」を作り、それを継いだのが「左院」である。
左院副議長であった、江藤新平の意図で、岩倉使節団に当初含まれていた、左院派遣団員・高崎正風と安川繁成を、急遽,本隊から外して、3名追加して、追っかけるように、二か月遅れで、アメリカで右往左往する本体とは別に、直接パリ(フランス)へ送り込んだ江藤新平の本音は、直接、フランス国議院の研究とその採用が目的であったように思われる。
・五名の団員は、高崎正風(薩摩)、安川繁成(白河)、西岡逾明(佐賀)、小室信夫(京都)、鈴木貫一(彦根)の五名で、明治5年1月27日に横浜発、蜂須賀茂詔等(小室の息子も)私費留学生と同船でフランスへ直行した。本隊より先に欧州で視察研究していたことになる。そのことが、江藤新平の目的と意図(急進的にフランス議会制度を日本に取り込む)に反して、結果的には、フランスで採用した法律教師・フロック博士の急進的共和制度の採用には否定的で、漸進的に取り入れるべきとの方針に、岩倉具視と木戸孝允が感化されて、帰国後の方針に影響を与えた。(尤も、江藤は、いずれにしても下野して影響力を失うことになるが)
・左院団員の5名は、二手に分けて高崎正風、西岡逾明, 鈴木貫一は、主として江藤の狙いのフランス国議院で調査に当たり、安川繁成と小室信夫が専らイギリス議会制度を学んで帰国した。帰国後は、高崎と西岡が、左院の拡張論と憲法論議などを深めていくことになる。
・一方、英国で学んだ小室信夫は、自由民権運動に目覚めて、帰国すると、明治6年の政変で下野組の板垣退助などに近づいて、「民選議院開設建白書」の起草を手始めに自由民権運動家として、更に実業家に転身してゆくことになる。ある意味では、行政府内(高崎、西岡、安川)と在野(小室)の両面で、左院派遣メンバーは、新生明治日本の建設に貢献していくことになる。
・敢えて、色明けすると、左院の派遣目的から判別すると、一緒に帰国した高崎・西岡・安川は帰国後政府内で活躍し、遅れて帰国した小室は政府の嫌う民権運動家となり、鈴木はパリ公使館で残留し働くうちに、公金横領罪に問われて、帰国有罪となり刑務所生活することとなり落ちこぼれ人と言えるかもしれない。
歴史部会 小野博正
西岡逾明
1835年(天保6年) – 1912年12月23日(大正元年)
佐賀藩 左院からの後発隊
幕末に医師だった頃の周碩、明治の官員として逾明、後に文人の号として宜軒の名。
佐賀藩支藩の蓮池藩出身の医師。父親は西岡春益といい、佐賀藩主典医として、秘薬・烏犀圓 (うさいえん)を調剤した3人の医師の一人。逾明も西岡周碩の名で緒方洪庵の適々斎塾 に入門、幕末は殿様付きの父親と共に大阪、京都にいた。幕吏に疑いをかけられて佐賀藩に戻ったという。戊辰戦争では佐賀藩の参謀を務め、北越秋田戦争を戦ったとみられる。
明治になると庄内藩酒田で新政府側の代表として民政局長を務め、後に大参事となった。この時代に酒田ではじめてとなる学校「学而館 」を設立した。同校は西岡が去るとほどなく廃校となり、西岡の教育的熱意で運営されていた学校であったと市立図書館の資料にある。
明治3年には東京府権少参事として東京に赴任した。これは前東京府知事だった佐賀出身の大木喬任が呼んだと久米邦武の回顧録にある。その後、左院に移動し、左院から岩倉使節団に派遣された。
左院は、議政・行政の区別、民政区別の分界、フランスの9省事務の分権、地方政治の体裁、国・州・邑議、諸院の分権、建国法の取調べ などを目的として、アメリカへ向かった本隊から1ヶ月ほど遅れてイギリス、フランスに官員を送った。西岡は高崎正風とともにフランスに赴き、個人的に教師についてこれらの学習を行った。フランス語については特に学習していたわけではなく、現地では菊間藩の駒留良蔵という留学生が主に通訳を務めたという。特に、経済学者、統計学者として知られるドイツ系フランス人のモーリス・ブラック(Maurice Block (German: Moritz Block); 18 February 1816 – 9 January 1901) から学習した。ブラックはティエール大統領と親しい関係で西尾からの教師を務めたようだが、日本の民選議院設立を時期尚早と考え、岩倉使節にその旨を建言したという。使節到着後は木戸と共にブロックを交えた学習を続け、木戸に日本では三権分立である必要はないことも説いたという。また、コンセユデター、西欧諸国の文明開化と言論・出版統制の関係、フランスの国立銀行、貨幣制度なども教示したという。帰国後に木戸が新聞の言論統制めいたことを行うのもブロックの影響かも知れない。
本隊とほぼ同時期に、しかしアメリカ周りで帰国したが、帰国後、左院は元老院に組み込まれて消滅してしまったため、それ以降は裁判所長、判事などを歴任し、引退後は小田原に住んだという。
参考資料
「久米博士の90年回顧録」久米邦武
「明治初期における左院の西欧視察団」松尾正人
東雲寺のブログ:http://www.touunji.com/index.html
東雲寺では由来不明ながら逾明の書を持っており、これを屏風に仕立てたとのことで逾明に関するブログ記事を何点か載せている。その中で以下の西岡逾明に関する論考を紹介している。
小田原史談会の季刊誌 『小田原史談』内の論考:「西岡逾明 ある文人司法官の生涯」
西岡の子孫である直江博子氏が『小田原史談』に連載した論考とのこと。
小田原史談会:http://odawara-shidan.hustle.ne.jp
酒田市立資料館ウェブサイト
酒田市立図書館光丘文庫デジタルアーカイブ
庄内日報ウェブサイト
歴史部会 村井智恵
鈴木貫一(すずき かんいち)
1843―1914 彦根28 左院五等議官(中議生)
彦根藩主井伊家の近習 バラから洗礼受け渡米
公金横領罪で入獄
天保14年(1843)2月12日、彦根藩士・鈴木重用の四男として生まれる。嘉永4年(1851)兄の鈴木重威の病気で、その養子となって跡式相続する。300石。その際、五郎八から権十郎に改名する。藩校:弘道館(文武館)で学ぶ。
江戸に赴任して、井伊直弼供方使番・側供となり、次いで井伊直憲宿供等として近侍した。文久2年(1862)和宮婚礼謝使として直憲にしたがい上京する。元治元年(1864)母衣役。禁門の変では朔平門警護に参加した。慶応元年(1865)大阪で供方頭を命ぜられ、直憲に従い、第一次長州征伐に出征する。慶応3年(1867)洋学学習の為、江戸遊学を命ぜられ、横浜のジェームス・ハミルトン・バラに個人教授を受ける。慶応4年(1868)2月、アメリカ留学を命ぜられ武役・当役を解かれ、母衣役次席となる。3月バラとデビッド・タムソンの寓居にて、粟津高明とともに洗礼受ける。妻の病気のため、一旦帰郷するが、サンフランシスコへ渡り、シティー・カレッジに入学。学長ビードル(Peter Vrooman Veeder、後お雇い外国人として来日)に聖書を学ぶ。明治2年、妻の病気のため帰国、貫一と改名する。明治4年1月、大参事・谷鉄臣の命で、自宅に洋学校を仮開校し、米国領事斡旋でアメリカ商人ジョン・ウイリアム・グードメンを雇用して学校を養子の省三に託して上京する。明治4年9月、太政官正院権少外史。明治5年1月17日、左院中議生となり、岩倉使節団後発隊として1月27日横浜を出て、3月フランスに到着する。国議院などの政治制度を視察する。この年、在欧のまま日本督公会に転入会している。(後年、鈴木は基督教に幻滅し、仏教徒に改宗している)
視察団では会計係を担当。南貞介の銀行倒産事件に巻きこまれ、公金を預けており金策に翻弄されて、胃病を患う。明治6年5月から、弁務公使・鮫島尚信のもとで、フランス日本公使館勤務となり、使節団からは離脱。パリでは万博事務局に携わり、明治13年(1880)12月鮫島が客死するとフランス臨時代理公使を、後任公使・井田譲の着任まで務めた。明治9年より、大蔵省海外荷為替資金、海軍省・文部省の留学生費・予備費の管理などを担当したが、それを流用して金貸しをしていたのが発覚して、明治15年(1882)遺書を残して、フランス国内に逃亡。結局死にきれずに、翌年自首して来て、東京に護送され石川島に、懲役7年で収監され、模範囚として5年で仮出獄した。
その後、高崎正風の斡旋で、下田歌子にフランス語を教え、明治23年には、下田の欧州教育視察に同行した。明治31年(1898)には、彦根に帰郷して、仏教系孤児院滋賀育児院を創設し、更に夜学校で英語・フランス語・ドイツ語など教えて、老後を過ごしたが、最後は京都で死去。法名・義丈貫一居士
歴史部会 小野博正