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英書輪読会:「Verbeck of Japan 16章」

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日時:令和3年3月17日(水)
ZOOMによるオンライン開催
ナヴィゲーター:岩崎洋三

1)フルベッキの無国籍問題を救った日本政府の特許状(滞在許可)発行

無国籍になった経緯
フルベッキは、来日前アメリカに7年間滞在している間に生国オランダの国籍を失ない、アメリカの市民権獲得にも1年足りなかったため、1859年来日時、そしてその後も無国籍のままだった。

フルベッキが来日時携行してたシュワード上院議員のハリス駐日総領事宛書簡
フルベッキは上院議員シュワードが駐日米総領事ハリスに日本政府へ善処要請する様依頼し、フルベッキは来日時にその書簡写を持参していた。シュワードはニューヨークの弁護士・上院議員で、1860年にはリンカーン内閣の国務長官に就任した有力政治家で、本件はフルベッキを派遣した外国伝道本部が依頼したものと思われる。(「明治維新とあるお雇い外国人」) 

失敗に終わった米国籍取得工作
フルベッキは家族のいるアメリカ永住を希望し、1890年一時帰米した際国務省に改めて米国市民権の申請をした。しかし、ブレイン国務長官からは「希望に添えない。ただし、駐日スウィフト大使に日本当局へ善処依頼するよう指示しておく」との回答を得るに止まった。

青木周藏・榎本武揚両外相の好意的裁断
・スウィフトの要請を受けた青木周藏外相はフルベッキの新旧日本政府への貢献を評価し快諾した。しかし、当時来日中のロシア皇太子ニコライが暗殺未遂された「大津事件」の責任を取り辞任を余儀なくされたため、フルベッキ及び家族の永住を許可する」「特許状」発行はピンチヒッター役の榎本武揚新外相に託され、1891年7月無事交付された。

・特許状をフルベッキに送付する際榎本外相は下記内容の丁寧な書状を添えた。「オランダ国籍を失い、米国市民権も獲得できず無国籍となったため、我が帝国の保護下で居住したいとの貴殿のご要望を青木前外相宛から引継いだ。貴下は我が帝国に数十年居住し、我が帝国のために献身し、多くの官僚・国民に愛され、尊敬されてきました。ついては、喜んで特別のパスポートを別便にてお送りします。有効期限は1年になっていますが、1年ごとに更新することを許可しています。」

自分と家族を日本の法支配下に置いたフルベッキの行為は賛否交々
当時の有力英字紙The Japan Mailはフルベッキが日本滞在30年の内に日本人の本質を知る格別の機会を得たと前向きに報道したが、不平等条約の権益擁護旨としていた他紙が押しなべて懐疑的だった中で、同紙は日本政府よりの立場を維持していた。

なお、日本政府寄りの英字新聞の必要性を説いたのは米国駐厦門領事のルジェンドルで、1871年台湾での宮古島民殺害事件に絡んで副島種臣外相、大隈重信蛮地事務局長官の顧問になった。ルジェンドルがビンガム新駐日公使に解任された後を継いだのがNew York Tribuneの日本駐在記者だったハウスだが、ハウスが大隈に台湾出兵随行を望まれたり、爾後大学南校教師、雅楽部洋楽指揮者としても重用されているのは興味深い。

人生の過半を日本で過ごしたフルベッキ
フルベッキは爾後娘エマと赤坂の自宅で過ごすが、1898年68歳で病没した。日本滞在は1859年来日以来39年間の長きに及んだ。

日本人の信頼を得たフルベッキ
著者のグリフィスが「フルベッキは外国人の評判は良くないが日本人の心からの尊敬と信頼を得た」と彼を良く知るある人物が1900年に書いていると、ある人物の氏名を伏せているのは不可解だ。

同じ米国オランダ改革派のMartin Nevious Wychoffと思われる。彼は、1872年に来日し、東京でフルベッキとグリフィスになった後福井の中学校に赴任、後開成学校教師、横浜先志学校校長、東京一致英和学校を経て明治学院教授になって、1911年東京で没しているが、1909年に”Guido Verbeck”を出版しており、その論調がグリフィスの引用と良く似ている。

2)フルベッキは明治学院の設立に関わり、10年間教授神学部教授を務めた

明治学院設立経緯
明治学院は、英語を学ぶヘボン塾と、キリスト教神学を学ぶブラウン塾の2つの流れがありました。米国長老派教会の医療伝道宣教師ヘボンの流れと、米国オランダ改革派教会のブラウンの流れです。 両派は、日本にキリスト教を根付かせたいとの思いで、教派を越えて協力し、1877年「東京一致神学校」が、今の中央区築地に作られ、1887年現在の白金の地に移転して「明治学院」となり、初代総理にヘボン、理事長にフルベッキが就任しました。(http://www.meigaku.ed.jp/info-school/history) 

フルベッキの役割
理事会議長に就任するとともに、神学部教授を10年間務め、新旧聖書入門、旧約聖書釈義等を講じた。

島崎藤村は第一期生として明治学院に入学した
島崎藤村は、一期生として1887年15歳で入学し4年後卒業したが、在学中に洗礼も受けている。藤村は小説「桜の実の熟するとき」に在学中の明治学院の様子を描き、明治23年同学で開催されたキリスト教青年会主催の夏季学校の部分で…『日本にある基督教界の最高の知識を殆ど網羅した夏期学校の講演も佳境に入って来た。…続いて旧約聖書の翻訳にたずさわったと云われる亜米利加人で日本語に精通した白髪の神学博士が通った。』とフルベッキらしい人物を描いているが、フルベッキは白髪ではないことからこの人物はタムソンとする説がある。

フルベッキが悩んだ、旧神学にとって代わる新しい神学と教会間の意見相違
詳しくはこの章の後半に出てくるが、三位一体を否定する新しい神学と教会合同交渉で明治学院を共同設立した長老派・改革派と同志社大学等の組合教会(会衆派)が教会政治の違いがネックになって、共同歩調をとれないことをフルベッキは悩んでいた。

明治学院明治24年度卒業写真、ヘボンを囲んで、最後列左から2番目が藤村、同じく右から4番目が戸川秋骨、中央列右から3番目が馬場孤蝶。(高谷道男著『ヘボンの手紙』有隣堂P.174)

(ナヴィゲーター岩崎洋三記)

 

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