日時:令和3年1月29日 10:00~12:30
オンライン開催
内容:司法省関連その2
日本近代法典の編纂者
政治家より官僚に徹した文人・碩学鶴田晧(つるた あきら)
担当:栗明純生
天保6年(1836)佐賀藩多久邑・多久家家臣鶴田斌(ひとし―馬乗格20石)の子として生まれる。 8歳で草場船山(伯父・草場佩川―弘道館教授の長男、弟子に藤山雷太、原三溪、友人に、頼三樹三郎、揖取素彦、岩崎弥太郎、清河八郎、梁川星巌)に四書五経、大学、小学、詩賦、文章を学ぶ。幼少よりその秀才ぶりをうたわれた。安政元年、江戸に出て昌平黌で安積良斎(門人に岩崎弥太郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎、谷千城等)や羽倉簡堂(律令)、藤森弘庵などに学ぶ。戊辰戦争(1868-69)では、佐賀藩のアームストロング砲隊分隊長として、会津戦争を戦う。
明治2年(1869)、大学校に入り、大学少助教となる。
明治5年(1872)明法助となり『改訂律令』を編纂。江藤新平に命じられ岩倉使節団司法省後発組として渡欧。ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの講義を受けて、帰国する(但し、語学上の問題でボアソナードの講義はよく分からなかったとの情報もあるー朝日日本歴史人物事典)。帰国後は、明治7年(1874)明法権頭から司法大丞一等法制官、太政官大書記官、一等法制官,(勅任)検事(現在の検事総長)兼元老院議官と昇進する。
わが国最初の近代法典である旧刑法や陸軍刑法、海軍刑法、旧商法など憲法を除く,五法(刑法、刑事訴訟法、民法、民事訴訟法、商法)の法典編纂の逐条審査を行い、明治政府の法制官僚として、幅広く立法、法務行政に一貫して携わった。その態度は、決して西洋一辺倒ではなく、また伝統的思想に頑なに拘るものでもなく、指導者ボアソナードも一目置く存在で、しばしば彼の考えを草案に取り入れたと言われる。
鶴田は、荻生徂徠の経世済民、民政第一、国政の基は実学に在りと考え、国家が無ければ天皇もないと国民を重視した。酒を好み、一弦琴を弾き、唄い、詩作を楽しみ、探梅、観月、相撲見物や温泉に親しむ風流人でもあり、明治19年の「学者鑑」では仏語学者のトップ、西園寺公望より上にランクされている。維新政府の要人達が名を連ねる『鶴鳴帖』(204名、234点の詩文画・揮毫集)有り。
(2005.5.23、「日本近代法典の編纂者―鶴田皓」(鶴田徹)ほか)
司法省顧問ボアソナードの片腕として
司法制度改革に貢献した阿蘭陀通詞 名村泰蔵
担当:岩崎洋三
1)阿蘭陀通詞
名村泰蔵は1840年(天保11年)長崎に生まれ、阿蘭陀通詞の養子となり、19歳で長崎奉行御用通詞の阿蘭陀小通詞になった。2)フランス語人材
1864年(26歳)に、フランス語にも長けた名村にチャンスが巡って来る。この年二代目フランス公使ロシュが来日し、幕府(勘定奉行小栗上野介)と横須賀製鉄所建設に始まる日仏関係強化策が合意され、関連の横浜製鉄所建築掛を命じられ、首長ドロール通訳官になった。 その後もパリ万博御用掛(徳川昭武遣欧使節団先遣隊)、広運館フランス語教師などフランス語能力を生かす仕事が続いた。
3)司法省顧問ボアソナードの片腕
1872年(32歳)には、初代司法卿江藤新平の下フランス法をベースに司法制度改革を急ぐ司法省に入省し、同年司法省訪仏使節団(岩倉使節団後発別動隊)に選ばれ、井上毅等とパリで法学者ボアソナードの憲法・刑法講義を受講した。パリ大学教授職に未練を残し司法省顧問としての来日をためらうボアソナードを説得し翌年帯同帰国、以後ボアソナードの片腕として講義通訳・講義録翻訳出版など法制整備に貢献した。
司法省には1893年大審院院長心得を最後に退職するまで21年間奉職した。この間講義録の翻訳出版等名村の著作は16冊に及ぶ。
4)東京築地活版製造所の四代目社長
53歳で司法省を退職した名村は、東京築地活版製造所の四代目社長に就任し、増資、分工場設立、職人育成、輸出入を含む活版印刷業の拡大・発展に努めた。
この会社は、日本における活版印刷創始で有名な本木昌造を中心に、養父北村元助などの阿蘭陀通詞仲間が長崎で立ち上げた活版印刷業の東京出張所として始まったもので、名村泰蔵にとっては里帰りのようなものだ。名村は1907年に68歳で没するまで14年間社長を続けた。 以上
[名村泰蔵略年表]
1840年(天保11) 長崎で誕生、実父は島村義兵衛。 時期不明 小通詞北村元助の養子となり北村元四郎と改名
1859年(安政6)19歳、オランダ小通詞
1861年(文久元)21歳、神奈川奉行所詰
1864年(元治元)24歳、横浜製鉄所建築掛
1865年(慶応元)25歳、軍艦用材購入のため上海に渡る
1866年(慶応2)26歳、仏国博覧会御用掛として 徳川昭武一行に先行渡仏
1868年(明治元)28歳、長崎府上等通弁
1869年(明治2)29歳、仏学局助教、外務省文書権大佑 この頃通詞名村八右衛門の養子となり、名村泰蔵と改名
1872年(明治5)32歳、司法省七等出仕。司法省使節団(後発岩倉使節団)としてパリでボアソナードの憲法・刑法講義を聴く。司法省顧問就任を渋るボアソナードの来日を促す
1873年(明治6)33歳、ボアソナードを帯同帰国
1874年(明治7)34歳、台湾出兵問題の顧問になったボアソナードと共に大久保利通全権弁理大臣に随行
1875年(明治8)35歳、ボアソナード著「仏国刑事訴訟法巻2」を翻訳出版、以後1883年にかけて14冊の翻訳出版を手掛ける1886年(明治19)44歳、大審院検事長
1893年(明治26)53歳、司法省を辞し、東京築地活版製造所4代目社長に就任
1894年(明治27)54歳、貴族院議員勅撰
1907年(明治40)67歳、東京築地活版製造所社長在任のまま死去 以上