日時:12月28日 10:00~12:30
オンライン開催
内容:司法省関連
明治国家形成のグランド・デザイナー 稀有の法制官僚 井上毅
担当:小野博正
一法制官僚として主要政治家の黒子役として明治国家の構築に全身全霊で取り組んだ稀有な存在。熊本藩家老・長岡是容(監物)の家臣・飯田権五兵衛の三男に生まれる。14歳から居寮生となり朱子学中心に勉強し、横浜、江戸、長崎にでてフランス語を学ぶ。
明治3年、貢進生として大学南校でフランス語教師心得になる。明治4年司法省に仕官し、明治5年の司法省理事官随行後発隊8人に加わり、岩倉使節団に欧州にて合流し、ベルリン、パリなどで司法制度調査にあたる一方、後にお雇い外国人として招くボアソナードの法講義を聞く。翌年、帰国すると大久保利通に登用され、台湾出兵後の清国での外交交渉に随行する。大久保暗殺後は岩倉具視のブレーンとして活躍、太政官大書記として、司法省と正院法制局に勤めて、刑法、治罪法の取調にあたる。
伊藤博文の憲法調査出張を企画し、伊藤の帰国後は、夏島での伊東巳代治、金子堅太郎やドイツ人顧問H・ロエスレル、A・モッセの協力を得て『大日本帝国憲法』の草案甲案・乙案を提出して、憲法案づくりをリードする。明治憲法発布時に出された伊藤博文著『憲法義解』は実質、井上の著作である。同時制定の『皇室典範』も起草している。明治23年、山縣有朋内閣の時に制定の『教育勅語』の起草にも関わる。不平等条約改正問題では、歴代の外務大臣に意見書を出し、外人の内地雑居に断固反対し、治外法権全廃まで妥協を不可として、外国人裁判官など認めなかった。更に、井上は日清戦争開戦の勅語や「立憲政体樹立の詔」も起草。明治のほとんどの立法に関与して、明治国家形成の設計者と言われるゆえんである。
何といっても、明治国家を規定するあらゆる重要法案「修正明治民法」「教育勅語」「軍人勅諭」「皇室典範」「大日本国帝国憲法」「同憲法義解」の草案に関わり、明治国家のグランドデザインを構想し、実現してきたことへの自負心には揺るぎないものがあったろう。こんな万能官僚は古今無二である。しかし、近現代史からみると、明治国家にも光と影が当然のことながら存在し、天皇大権を始めとする明治国家の骨格をなすほとんどすべての法制や政治的決断、詔勅起草に参画した官僚として、井上毅自身もそれらの功罪から逃れられないとも言えよう。
徳川武士の典型・操守一貫居士 沼間守一
担当:泉三郎
少年時は英学に励み、幕末は軍人となり、戊辰戦争では猛将として有名を馳せる。維新後は官僚となるも飽き足らず,独立の言論人となり嚶鳴社を起こし民権家として大活躍、また府会議員としても功績大なるも、国会開設を前に惜しくも48歳で病没した。
1 少年時代;英学修行、長崎、横浜、江戸・・・ヘボン時代、三宅秀、益田孝など、ヘボン夫人に救われる
2 軍人時代;軍人として戊辰戦争に参加
大鳥圭介(卑怯者、弱腰)会津、西郷頼母、沼間に鍛錬を依頼、谷干城(ねずみと猫) 徳川藩邸(われは降伏したに非ず,傲然)、谷に誘われ土佐で伝習、山県に誘われたが(大尉待遇)断っている。
3 官僚時代;硬骨の正義感として 司法省、井上馨の勧誘で大蔵省へ、横浜税関、英国留学、司法官、河野の推薦(後藤象二郎)で元老院権大書記官へ
尾去沢事件に関し河野一派審理担当となるも司直の公平を期したため長州一派それを恐れて河野を元老院へ転任させ、沼間も大阪裁判所へ転任をはかるが、沼間は断然拒否して辞職する。
4 嚶鳴社時代;明治11年法律講習所を改名して嚶鳴社へ、英国で演説の大事さを学び、文筆よりも演説を重視し、演説家として演説会の主宰者として活躍。沼間の演説ぶり;流暢ではないが一種の風格あり感動させた,粗末な衣服であったが眼光爛々として人を圧する勢いあり。奇警の語り口と江戸っ子風の舌鋒で聴くものをして溜飲の下がる思いをさせた。が、往々にしてやりすぎで憎まれ、恨まれもした。
5 政治家時代;自由党、改進党、府会議員、議長板垣を担いでしくじり、大隈を担いで袖にされ、河野もあれだけ親しくしてきたが結局は体制派に取り込まれて別れ、孤軍奮闘を貫いた。
6 豪傑的人物;軍人としても官僚としても言論人としても異彩を放った。民権運動に挺身し敵方にも人気があった快男児。逆運のなか病を得て惜しくも早世する。(出典;石川安次郎「沼間守一伝」(毎日新聞社)、三代言論人集(時事新報社)、益田克徳伝)
外交、貿易、地方行政に大きく貢献した柔和な能吏 中野 健明
担当:村井智恵
佐賀藩 司法少判事
1844年11月4日(天保15年9月24日)〜 1898(明治31)年5月11日 佐賀藩士・中野中太夫の二男。長崎の佐賀藩英語学校「致遠館」におけるフルベッキの教え子の一人。明治二年、大学校中助教兼中寮長、翌月大寮長となる。フルベッキの上京に従ったのかもしれない。その後の職を見るにフランス語が出来たと考えられ、新政府に移ったばかりの大学では元の開成所からなる洋学校(大学南校、その他の呼称がある)で英語とフランス語の教授を始めたため、フランス語の助教であったかと思われる。ほどなく外務に転じて少丞、権大丞として神奈川の事務を管掌し、また条約改正の下調べを任じられ、岩倉使節には司法省理事官の佐々木高行随行として参加している。神奈川では恐らく外国との貿易、外交に関係し、その実体験も踏まえて条約改正について調べた上での岩倉使節参加であっただろう。
<諸藩預けのキリシタン巡視>
岩倉使節派遣前の中野について特記すべき仕事として、彼は明治4年4月(1871年5月末)、外務権大丞として、諸藩に預けられた浦上四番崩れのキリシタンの状況を調べるため、鹿児島、徳島、高知、伊予松山、高松の5藩を訪問している。その報告は同年8月のものとして国立公文書館デジタルアーカイブに「記録材料・耶蘇教ニ関スル書類 『巡視概略・徳島、高松、松山、高知、鹿児島』https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000000015806」として公開されている。同年8月にこのような報告を書いた上で使節に参加している中野は、キリスト教問題についても重要な役割を担ったと考えられる。
<外交官、行政官として>
使節から帰った中野はその年にパリの日本公使館へ赴任し、途中に帰国をはさみながら、明治14年末頃までを一頭書記官としてフランス、オランダの公使館勤務で過ごし、フランス公使の鮫島尚信、オランダ公使の長岡護美を補佐した。帰国後の15年にはベルギーから勲章を得ているのでベルギーとの外交も担当していたようだ。在任中の明治11年3〜12月には松方正義大蔵大輔がパリを訪れ、フランス蔵相レオン・セイからベルギー国立銀行を例にするよう助言されたり、パリのロスチャイルド当主Alphonse de Rothschildにも会ったりしたという。中野は同年7月に帰国するが、それまでの間、松方の訪問を補佐したかもしれない。というのは、明治15年に日本に戻った中野は外務省から大蔵省に転じ、松方大蔵卿の下で関税局長を務める。また、松方の地租改正に関連して、「カダストル書式(地籍)」というベルギーの書式を土地台帳の記載様式に採用した際、この書式の入手に関わったという。(目賀田種太郎の手記に記載と「『東アジアの土地調査事業研究へのもう一つの視角』小林茂」 にある)。明治31(1898)年5月11日死去、53歳であった。
東大資料編纂書に寄贈されている347枚の写真が中島健明関係資料としてオンラインで閲覧できる(中野健明氏関係史料 http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller)。
参考:国立公文書館デジタルアーカイブ、国立国会図書館デジタルコレクション、東大資料編纂書古写真データベース 担当:村井智恵