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英書輪読会:「Verbeck of Japan 14章」

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日時:2020年12月16日 13:00~15:00
および2021年1月20日 13:00~15:00
場所:ZOOMによるオンライン開催
担当:市川三世史
内容:「第14章:天皇から勲章を授かる(1874年-1880年)」

概要: この章は、天皇からの勲章の授与までの、Verbeckの仕事の成果の回顧である。ここでは、長年にわたり懸念し、彼が全うすべき使命であると信じた “自分の本来の道である「布教」” に専念できる環境を得るまでの、長い道のりを振り返っている。

・1869(明治2)年~1871(明治4)年7月(廃藩置県後に正院・右院・左院の三院制発足まで)の官制:

・輔相(ほそう):三条実美(さねとみ)、岩倉具視(ともみ)、議定:徳大寺実則(さねつね)、鍋島直正、参与:

・東久世通禧(みちとみ)、木戸孝允(たかよし)、副島種臣(そえじまたねおみ)、板垣退助。

・明治中央官制の改革は、1885(明治18)年の内閣制度発足をもってようやく完成するが、当初は、行政、

・司法、立法の職は上位者が兼任するなどして、三権分立の原則はまだ守られていない。

・来日以来長きにわたり幕府の崩壊後、「開国直後の日本を列強のレベルに引き上げるべく尽力貢献したVerbeck」にとって、自分の門下生が政府の要職に就く時代となった。

・キリスト教禁制の解除と共に教会が組織され建設され、多数の信徒が登録された。これは本来の目的の布教活動による成果である。

・元老院(上院)において、顧問として国家憲法、帝国内閣形成の準備段階の促進に着手した。 グリフィスはこれをネーション誌に投稿している。

・1871年語学・学術においての功績が認められ、明治天皇から勅語を賜る。

・1873年大学南校を辞職、政府左院の翻訳顧問となる。同年6月文部省学監としてラトガース大学から文部行政の専門家モルレー(David Murray)の招聘を機に、アマチュアー時代の終わりを自覚し、引退を決意。

・1874(明治7)年ラトガース大学より、神学博士の学位を授与された。予期せぬ名誉であった。

・有用な人材育成のため創設された華族学校の指導者となり、1877年11月20日から一年間の契約をする。

・1877年7月天皇から勲三等旭日章を授与される。勲章の授与は人生初の経験である。しかし彼は、布教においても、この勲章授与の名誉を他用することはなかった。

・「ピリピ書」および「テモテへの手紙」等に示される聖パウロの布教行動を自らも範とし実行に努めてきたので,勲章の授与を自己の布教活動への賛辞であると受け止めている。

・1878年1月9日の手紙:政府の仕事(元老院における旧約聖書の翻訳委員)は今回を最後に取り止める。
伝道局の同意があれば、年末から年頭にかけて、宣教の仕事に取り組む意欲がある。

・1878(明治11)年5月14日、斬奸状をもとに士族六名により大久保利通が暗殺される(紀尾井坂の変)。

・1878年7月多忙により精神不安定と疲労の蓄積が表面化し家族と共に帰米するが、翌1978年宣教師として再来日。

・日本での高校、大学の設置計画は、福音の忠実な説教を重要視するのであれば、積極的な参加意欲がある。

・どの言語にも適用可能な文典研究の新方式を見出した。文章構成の根拠をより科学的に突き止めることが可能であり、新・旧聖書にこの適用を考えている。

・1880年5月12日の書簡内容:神学校で教え、説教の立案で多忙である。すなわち麹町教会の聖餐式と献堂式での説教、転居、開成所の1869・1870年度の卒業生への演説。京橋教会におけるキリスト教青年会(YMCA)の発会での説教など。

・Verbeckは性格寛大であり、無給を気に留めず、休息を取らなかった(デイビッド・タムソン博士談)。

・その後の行動:
帝国大学の設立援助のため来京。
東京に新設する教会のため寄付金を募り、外国人と大学教授から費用の全額を得ている。

文責: 市川三世史2021.2,3

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