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岸良兼養/河野敏鎌/江藤新平

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日時:令和2年11月27日(金)10:00 ~12:30
場所:ZOOMに依るオンライン開催
内容:岸良兼養(吉原重和)/ 江藤新平(大森東亜)/ 河野敏鎌(小野博正)

岸良兼養(きしら かねやす)

1837‐1883 鹿児島 35 歳 権中判事(随員) 大検事(今の検事総長)、第二代目大審院長

鹿児島藩士・岸良兼善の長男として天保 8 年(1837)に鹿児島で生まれる。 家系は 13 世紀にさかのぼる。大伴氏後裔伴姓肝付氏の分家・岸良家で、大隅国肝属郡肝付郷岸良邑を支配する豪族であったが、戦国時代に島津家に降伏し軍門に下る。

岸良兼養は島津久光の小姓などを務める一方、1865 年ごろ、長崎の何礼之の英語塾に学ぶ。当時、同英語塾は、全国から200名近い門人を集めていた。薩摩藩が一番多く、同門には、前田弘安(正名)、高橋四郎左衛門(信吉)、山口範三(尚芳) 鮫島武之助(尚信)、錦戸広樹(陸奥宗光)、萩原三圭なども学んでいた。 明治新政府に、議政官史官として慶応4年から明治2年間を務め,その後、監察司知事,刑部少丞、司法少丞などに就いた。 

明治5年(1872)、司法卿江藤理事官随行として、岩倉使節団後発隊に選ばれて、 河野敏鎌、鶴田皓、井上毅、益田克徳、沼間守一、名村泰蔵、川路利良らと欧州視察に 派遣される。

帰国後、明治 6 年権大検事となる。明治 7 年の佐賀の乱の裁判では、臨時大裁判長・ 河野敏鎌と共に審判に加わる。明治 8 年、初代大検事(大審院 詰検事)、明治 10 年の西南戦争での判決にも、裁判所長:河野敏鎌、検事長:岸良で関与した。 同年、大審院検事長に累進する。更に、明治 12 年には、大審院長に任じられる。初代 院長は玉乃也履(たまの せいり―岩国、1825‐1886)で、その地位は「開拓使の上 で、諸省の次」とされ、勅任判事の中から、司法卿の奏任で決まった。岸良は,玉乃を 継ぐ、二代目大審院長であった。 明治 14 年、司法少輔に転じ、明治 16 年、元老院議官を兼任となったが、同年現職 のままで死去した。弟の岸良俊介も、福岡県令、元老院議官を務めている。従四位勲二等。 (2015・7・8、朝日コトバンク、他)

(小野博正/吉原重和)


河野敏鎌(こうの とがま)

1844‐1895 高知 28歳 司法少丞(後発組)

土佐勤王党から明治初期の政治家へ。立憲改進党から各種大臣歴任。

天保15年(1844)土佐藩郷士の河野通好の長男として高知に生れる。幼名:万寿弥。安政5年(1858)江戸に遊学して安井息軒の三計塾に学ぶ。同弟子に陸奥宗光、谷千城、佐々木高行。文久元年(1861)帰国して、土佐勤皇党に加入、武市半平太や坂本龍馬らと交遊関係を持つ。文久2年、五十人組に参加し京都と江戸の間を往来して国事に奔走する。一藩勤王主義は土佐に始まり全国に尊皇攘夷運動として波及するが、藩主・山内容堂が佐幕派に鞍替えして藩論が転換し、河野らは投獄・拷問に耐えて6年で、明治維新を迎える。出獄して後藤象二郎の手引きで大阪に上り、江藤新平の知遇を得る。

明治2年、七等・侍詔局出仕、広島県初代参事となる。明治5年、司法少丞で岩倉使節団後発隊として、江藤司法卿理事官随行を命ぜられ渡欧する。(実際には江藤司法卿は派遣中止となり、河野が鶴田晧、岸良兼養、井上毅、益田克徳、沼間守一、名村泰蔵、川路利良を率いることになる)

帰国後、司法大丞となる。明治7年(1874)の佐賀の乱では、内務卿・大久保利通の起用で権大判事として鎮定の為、九州に向かい熊本鎮台司令長官の谷千城と共に討伐し、捕縛された旧知の江藤新平を釈明の機会も与えず斬首の判決を宣言したことで後世の歴史家に種々の憶測を生む。明治8年、元老院議官へ、明治10年の西南戦争後も、臨時裁判所裁判長として、戦犯審理にあたる。明治11年、元老院副議長となる。

明治13年、文部卿?となるや、田中不二麿の「教育令」を大幅に変えた「改正教育令」を発布し、自由主義から国家が人民を教育する方針に転じ、これがその後の文部行政として定着する。明治14年、初代農商務卿となるが、明治14年の政変で大隈重信らと下野する。翌年、大隈重信を中心に、小野梓、尾崎行雄、沼間守一らと立憲改進党を結党し副総理となるも、明治17年解党を主張し自ら離脱。立憲改進党は、自由党と共に自由民権運動を推進し、イギリス流議会政治と漸進的改革を主張していた。

明治21年、枢密院顧問として憲法の審議にあたる。それ以降、第一次松方内閣の内務大臣を皮切りに、司法大臣、農商務大臣、第二次伊藤内閣の文部大臣などを歴任し、明治政権の重職を担うことになる。河野敏鎌の師・安井息軒は昌平黌の松﨑謙堂に師事した朱子学派で、天皇を中心にした儒教的国家を理想とし、上下の身分、徳治の王道政治、五常(仁、義、礼、智、信)を重んじた。河野は、その為に民意は国家安寧の為に抑えても仕方ないとの立場から、政権の中枢に立ち続けたと考えられる。恩人江藤新平への厳罰も、明治国家の安定を最優先したと考えるべきか。明治26年子爵を綬爵。勲一等瑞宝章。最後は喉を掻っ切って自決―神経症というが(2020・11・17)


江藤新平 (えとうしんぺい)

1. 司法卿時代の業績
(1)司法事務(明治5年5月)
(2)「司法省の方針を示すの書」
(3)司法省誓約五箇条(現代語訳)
(4)「司法省職制章程」制定
(5)「軍事」と「警察」を分離し、司法省管轄下に「警保寮」(警察)を置く。(明治5年8月、翌年1月司法省から内務省へ  移管)
(6)地方人民の権利救済
(7)人身売買禁止
(8)「民法仮法則(88箇条)」策定

以上、江藤の主な業績を概括すると、①法治国家の基礎をつくること。②司法権の行政からの独立化。③判事・検事制度確立。④司法省事務分掌制定。⑤民法策定。⑥「軍事」と「警察」の分離。⑦明法寮設置(後の東京大学法学部の前身)などである。

司法卿としての江藤の基本的立場は、「国あっての民」という国家主義的傾向とは反対の「民あっての国」という理念に基づいていたと思われる。すなわち、 「国の富強の元は国民の安堵にあり、安堵の元は国民の位置を正すにあり」というものであった。

2. その他の主な事績

(1) 佐賀藩、鍋島閑叟を明治維新に参画させたこと。
(2)東京遷都提言
(3)廃藩置県と中央集権制確立
(4)佐賀藩、藩政改革
(5)陸海軍制度建白
(6)国法会議(議院)および憲法制定建白
(7)議院設置(公議所・集議院開設)
(8)外国議院制調査団派遣(左院議員時代)
(9)文部行政の大綱を定め、学校制度確立を企図(文部大輔時代)
(10) 仏教・神道の僧侶の妻帯等世俗化(教務省時代)
(11) 答申書(岩倉より依頼の政策立案事項) 明治2年2月(1869)

1.太政官の設置場所
2.人心を収攬する方法3.富国強兵の方策4.下院制度 5.外国交際の規則6.行政議政両官の権限7.強冨への手段
8.海外通商、兵制論9.官制の潤色10.公卿の処置11.物産興隆と器機技術の精練12 貨幣制度13.刑法14.即今の議事院論

3.  江藤新平の生涯

1834(天保9)年2月、肥前・佐賀郡八戸(やえ)村に、郡目付役、下級武士の江藤胤光の長男として生まれる。幼名は恒太郎・又蔵、後に通称を新平とする。元服し胤雄と名のり、号を南白とし漢詩等に用いる。父親は職務出張先で酒席の供応で浄瑠璃を語るなどが問題とされ、御役御免となる。このため江藤は幼少期から貧窮生活を送る。

脱藩の罪で幕末を永蟄居、閉門の上、自室謹慎で送る。脱藩中に京都で桂小五郎(木戸孝允)、姉小路公知などと知り合う。慶應3年(1867)12月、謹慎を許され郡目付に任命され、慶應4年1月に入京、三条、岩倉、大久保と会っている。同年新政府の徴士に任じられ、関東監察使、三条実美の随行を命じられ、江戸に向う。

上野戦争軍監として上野戦争に従事、のち江戸鎮台府判事に任命され、民政・会計・営繕を兼務する。その他会計官判事として新貨幣発行などにも関与した。9月「東京御幸遅延を諫める表」を提出し、天皇の東京御幸を促すとともに、皇居造営掛にも従事、また政策立案書を岩倉に提出している。

 明治2年2月、前藩主直正、副島と佐賀に帰り、藩の参政となる。この藩政改革の対象となった足軽層から不興をかったためか明治2年12月、東京で佐賀の兇徒6人に襲撃され、右肩・右腕を切られる。

明治2年11月、中弁に任じられる。制度局取調掛(明治3年2月)を皮切りに政府の要職を歴任する。制度取調御用・文部大輔(明治4年7月)、左院副議長(同年8月)、教部省御用掛(明治5年3月)、司法卿(同年4月)、参議(明治6年4月)など。新政府の制度設計、官制改革案起草、法典編纂、司法制度改革、国法会議議案、廃藩置県等、岩倉具視への「答申書」に見られるような様々の幅広い分野の諸課題と取り組み対処した。

明治6年6月、米欧回覧から帰国した岩倉斡旋の天皇による「征韓論」不可との裁可により西郷の「征韓論」に組した江藤は、西郷、副島、板垣、後藤各参議とともに参議を辞職する。辞職後、佐賀に不穏な動静が伝えられていたため、江藤は当初暴走せぬよう説得するため佐賀に向った。佐賀行前に佐賀出身の副島、大木たちから自重すべしとの忠告もあったが、「征韓党」党首となり「佐賀の乱」の渦中に入る。

明治7年2月、「佐賀の乱」勃発。
東京での裁判を期していた江藤であったが、明治7年4月、裁判長河野敏鎌のもと佐賀で審問、判決言渡し、斬罪梟首により波乱に満ちた生涯を閉じる。
明治22年帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。

大正元年9月、衆議院および貴族院の上議を受け、大審院検事総長より罪名消滅の詔書が交付される。大正5年、贈正四位を下賜されている。

(大森東亜)

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