日時:令和2年10月30日(金)10:00~12:30
場所:ZOOMに依るオンライン開催
内容:司法省関連その1
益田克徳(泉三郎)/平賀義質(村井智恵)/岡内重俊(小野博正)
益田克徳(ますだ かつのり・こくとく)
1852年(嘉永5年)1月 – 1903年(明治36年)4月8日)
巨人渋沢栄一の盟友でもあった三井物産の創業者、偉大な財界人兄益田孝の蔭に隠れて余り知られてない人物だが、戊辰戦争にも参戦した熱血漢で志高く多才で愉快な快男児であった。52歳で急逝。東京海上火災の創業者。茶の湯の世界でも兄をはじめ多くの財界人を引入れ「近代数寄の茶」の道を開いた功績は大きい。
父益田鷹之助は佐渡カ島の幕府地役人、4歳の時、父の転任で北海道へ。父と兄は池田使節団に随行して欧州へ。13で横浜のヘボンに英語を習う。海軍伝習所の見習い、戊辰戦争では榎本武揚に従い東北へ参戦、敗れて捕虜になり高松藩預かりとなる。兄の奔走で脱走を試みるが失敗。赦されて秘かに慶應義塾に学ぶ。のち、高松藩の英語教師となるが、廃藩置県となり兄の誘いで大阪造幣局に務める。
明治6年、井上馨の下野で孝と共に大蔵省を退職、司法省に転じる。岩倉使節団の後発留学生として英国へ一年滞在、法律や政治制度を学ぶ。
使節から帰国後は検事になり、佐賀の乱、山城屋事件、尾去沢事件、藤田偽札事件などに関わる。そのころ前島密の命で海上保険を調べる。留学仲間、沼間守一と法律講習会をつくる。官吏でありながら反政府的民権運動に参画、沼間とともにリーダー格となる。
27で司法省を退任。海上保険設立案を起草。一方、政治的啓蒙運動として演説会を始める。このころ江戸千家の川上宗順に茶を習い始める。
立憲改進党(大隈重信)の結成に参画。政府の民権運動弾圧で下火に。第一回衆議院議員選挙に立候補、敗れて政治活動から身を引く。
29歳で渋沢栄一、益田孝らの協力を得て東京海上保険株式会社を設立、支配人に就任。(当初は政治活動をするための資金確保も目的の一つ)。
矢野二郎(義兄)の推薦で商法講習所の各務謙らを雇い入れ業績をのばす。
茶の湯:明治12,3年ころ資産家で報知新聞の社長だった小西義敬という風流人と知り合い、茶の道にはいる。その後、川上宗順に師事し茶の湯にのめりこんでいく。根岸の自邸に撫松庵なる茶室をつくって楽しんだ。そして兄孝をはじめ多くの財界人を茶の湯に誘い込み、「数寄の茶」の道を開拓する。
52歳、脳溢血のためで没す。急逝が惜しまれる。
(泉三郎)
平賀義質(ひらかよしただ)
8/1/1826 (文政9) ~ 4/4/1882 (明治15)
筑前福岡藩 司法省中判事
平賀磯三郎/義質は福岡藩無足組という軽格の家に生まれ、生後二か月で父を亡くし母一人に育てられた。フェートン号での失態以来、洋学の修学が急務であった福岡藩は、安政二年に幕府が長崎伝習所を始めると28人の留学生を送り、平賀はその一人であった。この長崎留学には、親しかった団琢磨の実父・神屋宅之丞(馬廻役)の推挙があったという。
慶応3年、福岡藩は平賀義質(42)と青木善平(32)を引率として、船越慶次(16)、本間英一郎(15)、井上六三郎/良一(16)をアメリカへ、松下直美(20)をスイスへ留学生として送った。
平賀の一行は慶応3年春に長崎を出てボストンに向かい、のちに長崎で既知であった花房義質(岡山)や柘植善吾(久留米)とも再会している。塩崎智氏の「1870年に実施された米国国勢調査」によれば、1870年の国税調査の際にはマサチューセッツ州のWorcesterに居住記録があり、平賀はここでアメリカの新聞記事等を日本に翻訳して送っていたことが当時の新聞に出ているとある。
また、ボストン図書館所蔵の日本人留学生名簿の持ち主に推定されているディラウェイ(Charles K. Dillaway)と、平賀、青木、花房、柘植の5人で撮影した写真が残っている。後の経歴から平賀は法学を学んだと考えられるが、学校などの記録はみつかっていない。
明治3年12月、アメリカから帰国した平賀は、福岡からの学生等に洋学を教える傍ら、4年7月に司法省が発足すると出仕し、少判事として務める。10月には権中判事となったが、翌11月には岩倉使節への随行を命じられて再び日本を離れた。この際、福岡からの留学生として、平賀の塾で特に成績の良かった団琢磨と金子堅太郎が同行した。
平賀は行きの船の中で、食事のマナーが悪いと西洋人に馬鹿にされるということで岩倉に建言し、岩倉はこれを採って、食事マナーの解説を使節員に回したという逸話が久米邦武の「久米博士九十年回顧録」にある。村田新八がどのリンゴがうまいかと聞いたので久米が「赤いのがいいだろう」と言ったところ、カリフォルニアには80余種もリンゴがあって赤いからうまいというわけではない、という講釈に久米は辟易したと書いている。しかし、米国留学3年余であった平賀は、ラテン語まで勉強していたのであれば、本格的な学習もし、英語も理解していたと考えられる。岩倉使節訪問当時の米英の新聞でも、佐々木高行と共に裁判所等を積極的に見学している様子が伺える。また、ワシントンで行われた畠山や新島も参加した留学生会議にも参加している。
司法省に戻り、権大法官を務めた。江藤司法卿粛清後の明治8年5月には五等判事となり、10年6月には函館裁判所長として赴任している。12年に官職を退き魚鳥会社社長となる。
しかし、明治15年4月4日、長男が服毒自殺し、現場に駆け付けた平賀はその毒の入った水を誤って飲んでしまい、その場で死んでしまった。これにより、当主を失った平賀家は、福岡藩出身で優秀な洋学者であった石松决(いしまつさだむ)が嫁婿として継ぎ、工学博士平賀義美となった。
平賀の周りでは、長崎での英船イカルス号水兵殺害事件の犯人とされる金子才吉(突然の凶行後、翌日自殺)、ハーバードーを卒業後、東大法学部教授であった井上良一(平賀の留守中に平賀邸を訪問し、突然井戸に飛び込んで自殺)、そして義質親子、と謎の変死者が相続いている。
尚、当時のアメリカの新聞等には「ひらが」ではなく「ひらか」と書かれている。
(村井智恵)
岡内重俊(おかうち しげとし)
1842―1915 高知 30 理事官随行権少判事
佐々木高行に認められ司法省に入り、生涯の勅撰貴族院議員へ
天保13年(1842)土佐高知藩士・岡内清胤(きよたね)の長男として生まれる。通称:俊太郎。土佐藩の横目職(岡っ引き)に就く。
慶応3年長崎で、英国船・イカルス号の船員が二人殺害される事件が起き、その事件の発生直後に長崎出帆したユニオン号に嫌疑がかかり、その交渉に当たったのが土佐藩大目付・佐々木三四郎(高行)で、岡内はその談判を土佐で終えた上司の佐々木に随行して、長崎へ派遣される。そこで坂本龍馬と知り合い、薩摩藩の支援で武器や軍船購入など薩長の橋渡しや、ユニオン号で長州下関戦争に加坦していた亀山社中は、同年、後藤象二郎から坂本龍馬が脱藩を許されたのを機に、土佐藩所属の海援隊と改名した。
岡内はその海援隊の秘書役を務めたと言われる。長崎のオランダ商人・ハットマンからライフル銃などの購入に関わり、それを芸州藩よりチャーターした震天丸で土佐藩に届け、その足で坂本竜馬らと京都の土佐藩邸に入る。王政復古はその年の12月のことであった。
明治2年、佐々木と共に刑部省に入り、刑法官鞫獄判司事、刑部少判事、同中判事、司法権少判事を経て、明治4年、岩倉使節団理事官・佐々木高行司法大輔の随行に参加し欧州を巡遊、佐々木と共に帰国する。
帰国後、井上毅の「仏国大審院考」他を岡内が筆写したものが植木枝盛に渡り、後の『日本国憲法草稿』(私擬憲法)に影響を与えたとも言われる。
その後、司法権大検事、同判事、大審院刑事局詰、長崎上等裁判所心得(1878-1880)、長崎上等裁判長(1880-1881)、高等法院陪席判事を歴任する。
明治15-16年の自由党福島事件の自由民権弾圧(県令・三島通庸の河野広中ら福島県自由党員弾圧裁判)で高等法院陪席判事を務めて、三島に加担している。当時は、裁判官に身分保障なく、政府圧力に無力だったと後年告白している。
明治19年元老院議官。明治23年から亡くなる大正4年まで勅撰貴族院議員を務め、元老院が廃止された明治23年(1890)には、錦鶏間祗候となり、勲二等綬宝章を受章。明治33年には男爵となる。晩年は立憲政友会(初代・伊藤博文)に所属していた。大正2年(1913)正二位。大正4年、死去。享年74歳。岩倉使節団30周年と40周年の同航会の幹事も務め、生涯、真面目な行政官であったと思われる。
長男:岡内重清(1884―1907)は男爵を継ぎ、正三位。娘の壽(ひさ)は松本君平(1870―1944)-政治家、教育者、思想家、文学博士、衆議院議員の妻。
(小野博正)