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英書輪読会:「Verbeck of Japan 13章」

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日時:10月度 令和2年 1021日(水) 13:00-15:00

範囲:Ch. XⅠII  The Great Embassy in Christendom (pp.255-276)

日時:11月度 令和2年 11月18日(水) 13:00-15:00
範囲:Ch. XⅠII The Great Embassy in Christendom (pp.261/3行目-276)

場所:ZOOMによるオンライン開催
ナヴィゲーター:岩崎洋三

4月に始まったインターネット開催は今やニューノーマルになって、和気藹々さもリアルの時劣らないように思える。10月に読み始めたCh.XⅢ The Great Embassy to Christendam(第13章キリスト教国への大使節団)は中身が濃く、二か月かかってしまった。

本章は1871年の岩倉使節団派遣が中心テーマで、派遣に関わるフルベッキの提言書Brief Sketchのいきさつが詳述されている。その原文全文を隈なく読んでみようと交代で音読したが、フールスキャップ11ページに書き留めた膨大な文書は、使節団の編成、調査事項、訪問先など驚くほど詳細・用意周到に出来ていて、感銘する向きが多かった。

また本章では触れていないが、関連文書に報告書の作成方法を指南した「一米人フルベッキの差出候書」(木戸文庫)があり、その概要を説明したが、こちらも調査事項、記載方法から、頒布範囲までを念入りに記述したもので、視察団がそれに沿って行動し、米欧回覧実記が克明に記録した秘密を見た思いがした。

岩倉使節団派遣の起案者
著者のグリフィスはフルベッキが米国オランダ改革派の外国伝道局長フェリスに宛てた書簡を引用して、1871年の最大の出来事岩倉使節団の派遣を企画したのはフルベッキであるとしている。

11月21日付書簡で「使節団を率いるのは龍と旭(密航留学中の岩倉具視子息の変名)の父親だ。私はこの使節団派遣に随分関係している。使節団派遣がキリスト教信仰自由化に効果があるよう祈っている。」と書いていることを紹介している。

2年前に大隈重信(外国事務局判事条約改正担当)に提案していた
フルベッキは1859年来日後10年間は長崎で活動したが、1869年2月政府顧問兼開成学校教師として東京に招聘された。同年6月フルベッキは条約改正交渉を念頭に、政府大型使節団を条約締盟欧米14か国へ派遣すべきことを、時の条約改正担当大隈重信に、Brief Sketchと題された文書をもって提言していた。

しかし、当時は攘夷思想たけなわで、改宗者と疑われていた大隈は動けなかったのであろう。大隈は条約改正交渉期限ぎりぎりの1871年8月に至って自らを長とする使節団派遣を朝議で発議し承認されたと主張する。(大隈伯昔日譚)

③Brief Sketchと一米人フルベッキの差出候書
条約締盟欧米14カ国へ政府大型使節団を派遣すべしとして、が中心テーマだったので、その全文を交代で音読したが、訪問目的、各国首脳への挨拶、調査事項、訪問先、調査班編成などの詳細、使節団の成果を国民の利益と啓発のため刊行すべきことをフールスキャップ11ページに美しい筆記体で書き留めた膨大なもの。末尾には「宗教的寛容についての覚書」が添えられ、信仰ゆえに迫害されることのないようアッピールしている。フルベッキが外国伝道本部のフェリスに送っていた原本がブランズウィック神学校の図書館で発見された。

なお、使節団派遣に関わるフルベッキのもう一つの文書「一米人フルベッキの差出候書」が木戸文庫に収められていた。内容は①大使一行ノ回歴シタル顛末ヲ著述スル法、②政務上或ハ交際上ノ談判二於テ用ユベキ口啓と、③先進国の最善美は教育の賜物として、教育について考究すべき事項を列挙している。「これらは「米欧回覧実記」の「例言」にみられる方針とほぼ一致しており、実記がなぜ視察のあらゆる分野、様々な諸事項にわたってまで広範かつ精細、丹念な叙述をしているかを解く鍵を提供している」(田中彰校注「開国」)

④岩倉具視へのBrief Sketch逐条説明
1871年10月、フルベッキは岩倉に乞われて、大隈に提出していたBrief Sketchを再生し、岩倉邸で複数回逐条説明した。岩倉使節団はその二カ月後に横浜を出港した。フルベッキが使節団は自分の構想に基づいて実施されたと主張する所以である。

⑤キリスト教禁制の高札撤去(使節団最初の成果)
 1873年 2月の書簡フルベッキは「一週間前に外国宗教を禁ずる高札が撤去され、実質的に信教の自由が認められた」と喜びを露わにしたが、その数日前に教会問題を管理する教部省に「管理のための法律と規則の素描18項目81か条」を送っていたというから周到だ。なお、関連1873.2.24太政官布告第68号では「一般熟知の事につき撤去」と切支丹の語句が無いことから禁制は有効?」との説がある。(同志社大学土肥昭夫)

⑥フルベッキの生地オランダのザイスト
フルベッキは1873年4月から6カ月の賜暇を取り欧州旅行し、6月スイスで岩倉具視に会った後故郷ザイストを訪問している。数年前同地を訪問した井上さんに写真付きでご報告をいただいたが、フルベッキが19歳の時中国伝道師ギュツラフの説教を聞いて外国伝道に興味を抱いたモラビア教会の写真を拝見して感動した。同教派には宗教改革の先駆者でプラハ大学の総長も務めたヤン・フスがチェコ語で説教したのを咎められ1411年破門・焚刑に処されたことに端を発する長い歴史がある。

⑦その他エピソード

(1)グリフィスと岩倉の交流
「岩倉氏の娘二人が我が家を訪れた。 岩倉氏公邸での会食に姉と招待された。マレー夫人が岩倉氏に海外視察 の最大の印象を問うた。」(グリフィスは1870年岩倉の次三男がラトガースに留学した際同校に在学中で二人の面倒をみていた)

(2)フルベッキに学んだ前田正名・前田献吉・高橋新吉による「薩摩辞書」編纂
Webster辞書を典拠にフルベッキに学んだ3人が編纂した薩摩辞書(「改正増補和訳英辞書」)が、フルベッキの斡旋で上海にある米国長老教会の印刷所美華書院で1868年に印刷刊行された。(ナヴィゲータ―岩崎洋三)

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