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工部省関連

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歴史部会9月度部会報告

第1回
日時:令和2年9月18日(金)10:00~12:30
場所:ZOOMによるオンライン開催
内容:工部省関係

  • 瓜生震(うりゅう しん・ふるう)
    1853-1920 福井19鉄道中属
    通弁出身から役人を経て実業家(三菱の支配人)へ

福井藩士・多部五郎左衛門の三男として嘉永6年に生まれる。兄は瓜生寅。

長崎で英学を何禮之とフルベッキに学ぶ。長崎で坂本龍馬の海兵隊(亀山社中)に属し、後に実業家となる岩崎弥太郎と縁が始まる。明治4年工部省鉄道寮に出仕し、同年岩倉使節団に通弁・鉄道中属として随行参加する。

帰国後後藤象二郎の鉱山事業に関わり、後に三菱が高島鉱山を後藤より譲り受けたのを機会に、三菱長崎支配人として、英語の才を生かして、グラバーとともに石炭の輸出に携わる。以降、次第に三菱会社の重要人物の一人として、三菱の事業拡大に参画していく。

プレゼンター:小野

  • 肥田為良(ひだ ためよし)
    1830‐1889 幕臣 42歳 工部省理事官

咸臨丸機関長、日本造船の父 伊豆の医師・肥田春安の五男として生まれる。諱:為良。通称:浜五郎。
万延元年(1860)『咸臨丸』機関長として太平洋往還を成功に導いた。
岩倉使節団の工務省理事官として随行、フィラデルフィア別働隊として同市を訪問、その後欧米各国を歴訪し、造船、港湾,鉱業の調査に当る。帰国後、工部大丞、海軍大丞兼主船頭を経て、明治7年海軍少将となる。肥田の書いた理事行程は数ページしか無かった。理財に長じた肥田は、皇室財産の保全を期す一方、華族銀行や日本鉄道の設立運営に関与した。明治22年(1889)、藤枝駅で走り始めた列車に飛び乗ろうとして転落,轢死した。
プレゼンター:小野

第2回
日時:令和2年9月18日(金)10:00~12:30
場所:ZOOMによるオンライン開催

内容:工部省関係
長野桂次郎(ながの けいじろう)
1843‐1917 幕臣 29歳 二等書記官

幕府直参旗本・小花和度正(こばなわ なりまさ)の次男として生まれる。
叔父でオランダ通詞の立石得十郎の養子に入り立石斧次郎として蘭語と英語を立石得十郎と長崎・蘭語通詞の森山多吉郎より学ぶ。安政6年(1859)神奈川運上所通弁見習に登用され、万延元年の日米修好通商条約批准の新見遣米使節団に養父・立石得十郎と共に親子で随行する。米国では、若くて気さくで英語の出来る斧次郎は、トミーと呼ばれて婦人たちに大人気を博し、新聞でもてはやされ、トミーポルカの楽曲さえ作られた。

私塾を開き津田仙、益田孝らを教える。徳川慶喜が大阪城で米国公使ファルケンバーグと会談の際は通訳を勤めた。そのころ、プロシア人ヘンリー・シュネルと武器調達の為、上海を訪れている。維新後は、長野桂次郎と6度目の改名をし、明治4年の岩倉使節団の回覧に二等書記官で随行する。

肥田のフィラデルフィア別働隊に通訳として参加した。その後工部省七等出仕に切り替えられ、鉱山業務など調査にあたり、佐々木高行と共に一足先に帰国した。

帰国後は、工部省に在籍したが明治10年には官を辞し、北海道開拓に従事したり明治20年にハワイ移民監督官となって、安藤太郎、中村領事らと家族を伴い赴任したが、2年程で戻り、その後は大阪控訴院の通訳官を18年間ほど務めた。最晩年は家族と戸田村に隠棲した。結局、幕末までが長野桂次郎の絶頂期で、新政府になってからは疎んじられたようだ。74歳で死去。

川路寛堂 (かわじ かんどう)
1844‐1927 幕臣 28歳 三等書記官
川路聖謨の孫 大蔵省から英語教師へ

江戸で川路彰常の長男として生まれる。3歳で父が病没し、叔父の井上清直に育てられるが、8歳で川路家に戻り、祖父・川路聖謨の庇護を受ける。通称:太郎。温。
昌平黌に入学。箕作阮甫と蕃書調所で蘭学を、中浜万次郎・森山多吉郎に英語を、横浜仏語伝習所でメルメ・カションに仏語を学ぶ。

慶応2年、幕府陸軍の歩兵頭並(大隊長格)、同年幕命で英国留学の取締となる。英国では、他の留学生たちはユニバシティ・カレッジスクール中学に通い、川路は文学士モルトベイ氏の個人教授で海軍術・英文学を学ぶ。またパリ出張し、徳川昭武訪仏の支援にあたる。

帰国後横浜で生糸の貿易商を営むが失敗、然しこの間、伊藤博文、川村純義の面識を得、渋沢栄一と田辺太一の推挙で、岩倉使節団に外務七等出仕三等書記官として随行する。米国で、財政出納事務取調の大蔵省七等出仕に切り替わる。オランダでは運河・堤防等の土木工役視察の特命を受け、使節団と各国歴訪して帰国。帰国後は、大蔵省の残務整理、外務省の外国文書課長などを勤めた。

明治26年から明治32年まで、福山の尋常中学『誠之館』の雇教員となる。更に明治32年には兵庫・洲本中学校教諭心得を勤める。明治36年、兵庫県・三原郡組合立淡路高等女学校初代校長を11年間務める。大正3年―11年には神戸の松陰高等女学校(現松陰女子学院)の副校長を勤めて、以降神戸に隠棲した。84歳で死去。

山尾庸三(1837-1917)
庄屋出身(元は九州・大友氏家臣で、大友氏没落で帰農し、長門に移る)の身で、長州藩の一代士雇身分となり、桂小五郎、大村益次郎らと交わる中、ロシア遠征を機に、武田斐三郎に師事。海外への目を見開き、藩に英国留学を申請して、長州ファイブに列する。ロンドンで学ぶ内に、造船所の見習いとなり、西洋を吸収して帰国。

モレルの「一大公共事業の省」の提案に応じて、伊藤博文と工部省を創設して、伊藤の使節団の留守にその立ち上げの責に任じる。特に、工部寮の創設で、産業人材育成に尽力する。通称、日本工学・工業・造船の父とされる

生涯、重責を担える立場でありながら、61歳で難聴を理由に一切の官職を辞して隠居し、81歳まで、悠々自適の生活に徹したのは、何かと身分に恋々とし、お行儀の悪かった長州人の中にあって、清々し思いがする。

工部省総括

伊藤博文(1841-1909)長州 副使・工部大輔
ダイヤー招聘、帰国後、参議兼工部卿

大島高任(1826-1901)岩手 鉱山助 官営釜石製鉄、日本鉱業会長

肥田為良(1830-1889)幕臣 工部理事官 造船の父 咸臨丸機関長

瓜生 震(1853-1920)福井 鉄道中属 高島炭鉱 三菱支配人

川路寛堂(1844-1927)幕臣 三等書記官 英仏語 運河堤防研究

長野桂次郎(1843-1917)幕臣 二等書記官 米国より肥田随行

山尾庸三(1837-1917)長州 工部少輔~工部卿 工部立国の父

工部省

伊藤博文と山尾庸三が太政官に工部省設置を働きかけ明治4年8月14日発足

鉄道寮(ウイリアム・カーギル)1872-1877 オリエンタル・バンク 鉄道開業総覧

造船寮(レオンス・ヴェルニー)1865-1876 仏人 横須賀造船所

鉱山寮(スミス・ライマン)1872-1891 石炭地質調査

製鉄寮(オーギュスト・バスチャン)1866-1872 仏人

電信寮(ヘンリー・ストーン)1872-1917 英人 日本で罰す(青山霊園)

灯台寮(リチャード・ブラントン)1868-1876 英人

制作寮(ジョサイア・コンドル)1877-1920 日本人と結婚 護国寺

工学寮(ヘンリー・ダイアー)1873-1882 工部大学確立

勧工寮(ヘンリー・ダイアー)
土木寮(デ・レーケ) 1873-1903 蘭人 全国の河川整備

測量司(アレクサンダー・マクベイン)1869-1873 気象・天体・地震観測 スコットランド義兄

以上 10寮(工学寮と測量司を除いて、元あった民部省からの移管)

殖産興業、富国(強兵)の目的で、鉄道お雇い外国人として、来日していたエドモンド・モレルの提案を山尾庸三が取り上げて具体化した「工部省」は、国家事業として10の「寮」と一つの「司」で始まり、国営の諸事業を展開してきたが、国営企業での官僚の不能率やら、民間も力をつけてきたことと、売却で国家財政も潤うこともあって、順次、民間へ払い下げを行い、明治18年で廃止されることになった。売却の中心を担ったのは、最後の工部卿・佐々木高行であった。

一部には財閥を育てることにつながったとの批判もあるが、その後の日本の基幹産業の興隆をみれば、一応の成功だったと評価できよう。

国営事業として産業の基本を作り、国営の不経済性を考えて、民間への払い下げは、次に掲げる所期の目的を達成したと言えよう。

プレゼンター:小野

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