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英書輪読会:「Verbek of Japan 13章1」

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日時:令和2年9月16日(木)13.00-15.00
場所:ZOOMによるオンライン開催
課題:Ch.13 Among All Sorts and Conditions of Men (pp.240-254)ナヴィゲーター:岩崎洋三

本日は13章15ページをナヴィゲーターのパワーポイントを駆使したリードの下、交代で音読しながら読み進めた。

この章は筆者グリフィスが日本の到着以来福井赴任まで大学南校教頭フルベッキ邸に7週間滞在中に目にしたことや、フルベッキが米国オランダ改革派外国伝道局長フェリスに宛てた手紙等が紹介されている。

なお、本には書かれてはいないが、この時期フルベッキ邸には、高橋是清(16才)が同居し、英語力を認められて、大学南校の教師の手伝いをしていて、下記殺傷事件に自伝について極めて詳細に書き残しているのは興味深い。

高橋は仙台藩の命で1867年勝小鹿の米国留学に随行したが、途中サンフランシスコで奴隷として売られてしまった事件は有名だが、一年後に解放されたタイミングで留学を切り上げて帰国途中の森有礼と同地で出会い、帰国後はその書生として東京の森邸で学んでいた。

1)新知識を求めフルベッキ邸に集まる人々
 フルベッキは開成学校教師・政府顧問として上京する前に、長崎に10年居て、同地に全国から集まっていた俊才を教えていたが、それら人材が中央および地方で枢要のポストを占めるようになり、日本語も達者な「フルベッキ先生」に教えを乞う人々が大勢押しかけていた。

グリフィスが書いている「弟が米国で学ぶ紳士、弟はその後各地の万博で活躍した」を調べたが、弟は手島精一(1870フィラデルフィア留学、1876フィラデルフィア万博、1878パリ万博随行、1881東京教育博物館長、日本で唯一の「博発会男」)、兄は田辺貞吉(留学後立法局を経て文部省、1879東京師範学校校長、後住友銀行本店支配人)の兄弟に違いない。

2)大学南校の隆盛ぶり
 フルベッキは本部宛書簡で、「学生数は996名、施設の制約で入学できなかった者200名以上、学部は英仏独の3学部、外人教師12名」と大学南校の隆盛ぶりを誇っている。同行誕生経緯は以下の通り、1869年8月昌平学校・開成学校・医学所を束ね「大学校」が誕生した。翌年1月「大学」と改称され、本校(昌平学校)の南(現在の学士会館)にある開成学校は「大学南校」と改称された。政府は259各藩に入学生を推薦させ(貢進生)300余名が推薦入学していた。
なお、大学南校発足に合わせて官費留学生制度(国費留学生制度)をスタートし、初回には目賀田種太郎が選ばれハーバードに留学している。

3)玉石混淆の外国人と外人教師採用の困難さ
 需要旺盛な外国人教師の採用にフルベッキは苦労していた。過去のキャリアは立派でも、世界を巡って横浜に流れ着く過程で身を持ち崩した輩も少なくなく、現地採用の困難なことをフルベッキは嘆いている。「いずれグリフィスを福井から呼び戻す予定」と本部に書き送った。

4)大学南校英人教師2名殺傷事件
 グリフィスがフルベッキと王子観光に行く予定の朝、大学南校の英人教師二人が襲われ瀕死の刀傷を負う事件が発生して、王子行きを取りやめて現場に急行する事態になった。この事件をグリフィスは主著The Mikado’Empire(皇国)に書き残しているが、当時フルベッキ邸に同居していた高橋是清は「自伝」の「第3章帰朝と青年教師時代」に「ダラース、リング事件の当時」の一説を設け6ページに亘って事件を詳述している。被害者の二人がこの日築地の遊郭で遊ぶため護衛を返してしまったため被害に会ったのが、一時は英人救出のため横浜から英国公使パークスが騎馬隊を引き連れて駆けつける一幕もあった。幸い日本政府の事後処理に納得して国際問題には発展しなかったようだ。

5)福井藩江戸屋敷でのグリフィス歓迎会
 グリフィスは自著「皇国」で、現在の常磐町にあった福井藩の江戸屋敷で開催された歓迎会の状況を詳細に記している。前藩主主催の歓迎会には宇和島藩他の大名・家老や多くの有名人が参会した。小弁務士として米国赴任が決まった森有礼が着物・二刀差し姿で出席してたことにグリフィスは驚いている。森が廃刀令の主張者だったからだ。グリフィスはこの森と鮫島尚信(パリ領事から外務次官)の二人が岩倉具視の信頼厚く、首都では「the legs of Iwakura」と呼ばれているとしているのは興味深い。また、静岡に居た勝海舟出席できなかったが、丁寧な歓迎の手紙をくれたとしている。

6)理想的な父親だったフルベッキ
 長崎で長男として生まれ、18歳で渡米したWilliamは、士官学校で学び、New York Natinal Guard の司令官(准将)にまで出世した。
Williamは友人に宛てた手紙で、「父であり、兄弟であり、親友」だったとして父親を絶賛している。そして自分の子の名に父親と同じGuido Fridorinと名付け、そしてその名は代々受け継がれている理由である。                    以上

文責:岩崎洋三

 

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