日時:令和2年8月28日10:00~12:30
内容:明治創成期の文部省総括
講師:小野博正
仮説1・岩倉使節団・田中不二麿の 発布した『教育令』は大失敗だった。
明治初期の文部行政は、学制(明治5年)、教育令(明治12年)、改正教育令(明治13年)、再改正教育令(明治18年)と変転するが。田中不二麿は回覧から帰国後、文部卿不在の4年間を、文部大輔(次官)トップとして文部行政のすべてを、自分が招聘した文部学監・ダビド・モルレーの後援を得ながら采配して、教育令の発布に漕ぎつけた。
新島襄の語録に見る『田中不二麿の変心』の怒りはなぜだったか?
仮説2・明治文部行政の迷走、結局は最初の『学制』が、一番理想的だったかも?
学制とその前後の新政府教育方針
学制取調掛(明治4年12月)-洋学者を中心に集められた
学制を起草の中心と想定される長三州
明治初年期の文部卿・文部大臣ー安易な人事は文部省軽視の表れか?
岩倉使節団文部省関係団員と関連人脈
仮説3・明治の文部行政の骨格は、実は伊藤博文と森有礼に依って方向つけられて現在に至る。
仮説4・日本近代と明治の教育の原点は江戸の教育にあった。明治は江戸の延長に過ぎない。
明治維新は天保生まれの学歴はほとんどない下級武士で実現された。
仮説5・教育は単純でよい! -読み書きそろばんと考える力で十分
今後教育問題については別の場を設けて議論を深めたいという事と成った。
吉原記