日時:令和2年6月25日 10:00~12:30
場所:ZOOMによるオンライン開催
講師:田中不二麿について福島正和氏(会員)、新島襄について多田直彦氏(会員)による発表が行われた。
田中不二麿
御三家尾張藩を勤皇に導き国民主義の教育を志向。
~早すぎたのか?合わなかったのか?または65年の生涯と文部官僚の11年~
・高須4兄弟と御三家筆頭尾張藩
尾張藩は分家支藩の高須藩松平家によって継嗣断絶を補っていた。しかし、実際は将軍家からの養子を押し付けられ、幕末では将軍家血筋の当主が4代続いていた。
慶勝は待望の地元藩主として人材登用等の藩政改革に着手した。
田中は1864年(元治元)前藩主徳川慶勝に建白書を提出。これが認められ、藩校明倫館に入学。幕末の明倫館は藩政に人材登用を行う政学の拠点であった。慶勝と共に、幕末維新へ身を投じ、長崎へも遊学した。
・岩倉使節団の文部省関係者として新島襄の協力の元に優れた「理事功程」をまとめ、又モルレーの招聘に努めた。
出国時の文部省理事官編成
田中不二麿(尾張27歳)、長与専斎(長崎34歳)
中島永元(佐賀28歳)、近藤昌綱(幕臣23歳)、今村和郎(土佐26歳)
・「学校令」(森有礼)公布
田中不二麿、法務省へ(明治13年1月)、知事県令の教育面の権限強化、文部省の行政力強化→国家による近代教育の統一
・田中不二麿と黎明期の日本の博物館事業 2つの系統の博物館が開館し、今日につながっている。
内務省系博物館(産業育成・文化財保護)→東京国立博物館へ
文部省系博物館(教育)→国立科学博物館へ
(福島正和)
新島襄
1843‐1890 安中藩 29歳
アーモスト大学(米国)で日本人初の学士 同志社英学校創設。本名は新島七五三太(しめた)。
元治元年(1864)「快風丸」で函館へ。ポーター商会の店員・福士卯之吉の協力で米船ベルリン号にて密出国。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、慶応元年(1865)ボストンに着く。ボストンで同船の船主・A.ハーディー夫妻の支援を受けフィリップス・アカデミーに学び、アーモスト・カレッジに進学。明治3年(1870)に卒業後アンドーヴァー神学校に入学。
明治4年(1871)米国少弁務使・森有礼と会う。
明治5年(1872)、岩倉使節団の田中不二麿と会い、三等書記官心得として随行が決定。神学校を休学し、米国視察の後、欧州7カ国の教育制度等の視察調査を行う。
新島はベルリンで田中不二麿の報告書、『理事功程』の草案を執筆。その後、リウマチ治療のためドイツで湯治。明治7年(1874)11月26日、準宣教師、牧師で帰国する。
明治8年(1875)11月29日、同志社英学校を京都に開校。初代校長に就任。明治9年(1876)、山本覚馬の妹・八重と結婚
明治17年(1884)4月、保養と募金のため欧米旅行に単身で出発。スイスで心臓発作を起こし、遺書まで書くが回復。ハーディー夫妻らと再会して翌年暮、帰国。
明治22年(1889)病気を押して募金のために関東地方に出かけ、群馬県前橋で発病。温暖な大磯の旅館「百足屋」の離れにて転地療養。明治23年(1890)1月21日、2時間にわたり遺言[1]を述べ、徳富蘇峰が書き留めた。内容は生徒に関すること等。23日、急性腹膜炎で死去。46歳11ヶ月の短い生涯だった。
(多田直彦)
レジメは会員ページに掲載予定です。
文責:吉原