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長与専斎/森有礼

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日時:令和2年7月25日 10:00~12:30
場所:ZOOMによるオンライン開催

内容
1.長与專斎1838‐1902
西洋医学への道の先駆をなし医療福祉・公衆衛生行政の創始者。 肥前・大村藩医・長与俊達の養子長与中庵の子として生まれる。文久元年(1861)長崎の医学伝習所で、オランダ人医師ポンペに師事し西洋医学を修める。その後、ポンペの後任のボードウインから医学教育近代化の必要性を教えられる。長与は明治元年、長崎精得館(長崎医学校)の学頭に就任。マンスフェルトと共に、自然科学を予科と医学を教える本科から区分する学制改革を行う。

明治4年、長崎から医学校の中心が東京に移るや、文部少丞兼中教授として上京、岩倉使節団の文部理事官・田中不二麿に随行して欧米を回り、主としてドイツ、オランダの医学及び衛生行政を視察した。ドイツでは留学中の池田謙斉、桂太郎、松本圭太郎、長井長義らと日本の取るべき医政を語り合う。

明治6年帰国。翌年、初代文部省医務局長・相良知安(長崎で共に、ボードウィンに学んだ間柄)の後任として、医務局長に就任。

明治8年、初代衛生局長に就任。以降19年間その職に在った。コレラなど伝染病の流行に対して衛生行政を推進し、また衛生思想の普及に努めた。『衛生』の訳語は長与が採用したもので、Hygieneが語源。

明治24年に衛生局長を退き、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、中央衛生会会頭など歴任。明治16年に石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと創設の大日本私立衛生会の会頭に明治34年就任するなど、日本の医学界及び衛生行政の基礎作りに貢献した生涯であった。明治35年脳貧血で死去。享年65歳。墓所は青山霊園。

子供に、長与称吉(男爵、妻は後藤象二郎の娘)、長与又郎(がん研究の世界的権威、病理学者、男爵)、長与善郎(白樺派作家)は五男。孫に犬養道子など。

小野博正

2.森有礼 
鹿児島市岩崎谷で生まれる。
元治元年に薩摩藩に洋学専門の開成所ができ、入門する。
元治2年(慶応1年/1865)に薩摩藩は密航留学生および使節の派遣が決まり、その一人に選ばれる。

ロンドンに渡った留学生は翌年の1866年夏に旅行をする。畠山義成はパリへ、吉田と鮫島尚信はアメリカへ、松村淳蔵と森はロシアへ行く。67年には藩の財政難と幕末の差し迫った状況から町田久成の随行者は帰国し畠山、吉田、鮫島、松村、森、そして年少だった長澤鼎がオリファントとともにハリスのコミューンに加わった。ここから森は生涯ハリスを師事したとも、していないともいわれる。

日本に帰国した森は議会制の設立に関して制度の取調べや初期的な国会的な組織である公議所(後の衆議院)に出仕するが、廃刀についての建言をしたことで総スカンをくって公議所を辞め、当時佐賀にいた兄横山安武を訪ねてから鹿児島に戻り英語塾を始めたという。初めての在外公使館の責任者として、1871年1月、森はアメリカに、鮫島は英仏に渡った。

1872年には岩倉使節が到着する。西洋人めいた意思の強さは使節員たちには概ね不評を買った。この影響で、森と親しかったコネチカット州の教育長官であったB. G. ノースラップは日本の文部省責任者となることを予定していたが、決定しないまま、その仕事にはラトガース大教授のデヴィッド・モルレーが就くことになったとも言われる。

帰国後は文化人としての活動を志したのか、欧米でいうサロン、ソサエティに近似した明六社を発足し、興味深い論を発表して世間を騒がせ、また圧倒的な支持も集めた。また、当時珍しかった広瀬常と契約結婚をしたことでも知られるが、これはアメリカの結婚証明書(ライセンスとも呼ばれる)と婚前契約を混ぜたものであったと考える。

明治19年に岩倉具視の5女の岩倉寛子と再婚した。

その後、清国公使、イギリス全権公使を経て第一次伊藤博文内閣、その後の黒田清隆内閣でも文部大臣を務めた。高等師範学校改革、「諸学校令」により尋常小学校を義務教育とした。しかし、元田永孚をはじめとする根強い反発派に常に目の敵にされ、伊勢神宮での不敬事件、八咫の鏡を見たなど多数のエピソードを持つ。

明治22(1889)年2月12日、大日本帝国憲法発布の日に暗殺された。

村井智恵/吉原重和

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