日時:令和2年7月15日 13:00~15:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
担当:市川 三世史
内容:
もし筆者グリフィスがこの時期に日本にいて、日本の変革を目で見て、肌で感じ取ったならば、まさに進行中の新生日本の希少な外国の立会人として、後世に名を遺したかもしれない。
——————————————————————————–1870年4月21日付けフルベッキ書簡内容:以下書簡は全てニューヨーク在住 神学博士 フェリス博士宛である。
□3月にラトガース大学に送り出した岩倉氏の二人の息子(具定および具経)への気遣い。
□開国後の10年間の状態を、1690年来日のE・ケンペルが記した「日本誌」の内容と比較し、「ペリーが門戸を開き、世界の文化と商品が日本に流入」として、その進展を列記:
■主要貿易国から数多の商品が新市場日本に到来。開港場や江戸・横浜にあふれ、人気となる。
■貿易上の古い習慣「役人の干渉」は排除された。
■陸海軍の組織、武器、制服が欧米式となる。
■乗合馬車、船舶航路と電信機能の開設、鉄道敷設契約の促進、外国機械の導入による鉄工場・造船所の建設、牛肉・パンなどの新食品の消費、服装・ミシンの導入などがあった。
■精神面における欧米知識の学習意欲が高揚し、外国語(英、独、仏)では大学・私立学校、西洋医学では病院と医学校の設立が増加。
■数紙の新聞の発行と「海外ニュース」「外電」の取り込み。輸入外国語書籍の驚異的急伸。
■法律・政治経済学・学術的研究・論理学を学ぶ留学生の海外渡航の急増。
■フルベッキ在駐の大学では、「ナポレオン法典(仏)」、「A・ペリーの政治経済学(米)」、「フンボルトのコスモス(蘭)」の翻訳出版の動き。
■「バックルの文明史(英)」、「ウエーランドの道徳科学(米)」の読者の普遍化など。
■新知識を求める多くの人が連日来訪する。10年前には想像すらできなかった。
■政局面では、新政府樹立の利害関係にからむ大規模な紛争と進展があるとみているが、詳述する時間がない。
³1870年5月21日付けフルベッキ書簡内容:
□可成りの地震の揺れを体感した。
□改革に追従できぬ多くの人々は「古き良き時代」に固執し、現状を理解していないが、時代は若い世代に移りつつあって、大きな変革が期待されている。
³1870年6月21日付けフルベッキ書簡内容:
□大学で授業6時間、家で生徒数名を教育、多勢の訪問客等で手紙を書く時間がない。
□今秋ニュープランズウイック留学の青年数名の、参加予定をサポート。
□外国の衣服、品々、知識が歓迎されている。
□キリスト教は禁止のままであるが、自分の努力が無に帰しはしないと信じている。
³1870年7月21日付けフルベッキ書簡内容:
□伝道局より、アメリカから青年教師数名派遣の通知が到着。現在求めるのは、化学、自然科学の教師、外科医。任地は越前の福井。先行者一名を今月同地へ派遣した。
■後続者に、頭脳明晰、思いやり、一般的知識と専門分野、特に化学に長じ、固い信念、堅実と敬虔さを期待。聖職者でなくとも可としている。
■医師ならばオランダ語の習熟者を希望。
□医学分野に導入すべき言語と制度につき、フルベッキは諮問を受けた。
□これにつき軍医総監石黒忠恵は、英米方式ではなく現在主流のオランダ医学の本流ドイツ医学をフルベッキに推奨し、その導入がさらに政府に建言された。その功績は大なりと、石黒はフルベッキの葬儀の際に新聞「天地人」に述べている。
ドイツ皇帝への要請により、著名な医師Dr.ミュレル、Dr.ホフマンが来日し、ドイツ医学は尊敬を受け、皇太子の婚儀において勲二等瑞宝章を授与された。
³1870年8月20日付けフルベッキ書簡内容:
横井小楠の甥、横井太平の要請により、米国人教師の肥後政府への派遣をフェリス博士に懇請。退役将校、夫人同伴の既婚者を希望。
³1870年9月21日付けフルベッキ書簡内容:
華頂宮殿下、柳本氏、白峯氏、高戸氏の紹介状をフェリス師に送り、助言と世話を乞う。
³1870年9月23日付けフルベッキ書簡内容:
華頂宮殿下についての追記。フェリス師は政府高官に既知の存在としている。
□米国プランズウイックへの留学生の増加に応じて設立の医学校と学問所に、越前藩主松平慶永(よしなが)から英語、教育全般、自然科学、鉱山技術、軍事指導の五名の教師の獲得を依頼された。同大学の校長職を受諾(1870年7月21日付け)。仕事はさらに増加し、彼の布教活動への想いはまた満たされなくなった。
³1870年10月22日付けフルベッキ書簡内容:
フェリス師の手紙への返事である。受領書簡の内容が判然とせぬため、フルベッキの真意が今一つ掴めない。布教活動に注力を願う思いは満たされていない。新政府が政治・外交・経済面で現在迷路中にあるのを見て、外国の影響を可能な限り遠ざけておきたい状況を理解している。
自身は誠実な人間として何の見返りも求めず、永く忍耐と辛抱に耐え、主の定めに従い尽してきた。我々宣教師は真の性質を主張し、伝承と迷信から生じたような恐ろしい生き物ではないと、日本に充分に証明しなければならぬとしている。
7~8名の外国人教師の管理で多忙を極めるが、それに苦情はない。必要がなければ、愛する子供たちと離れることに決して同意をしなかった。
我々の仕事のために祈ってほしい。キリストと共にあらんことを! と結んでいる。これは多忙で仕事に追い回されて、周囲を見ることもできなかったフルベッキの、寂しさの表現なのか?
追記:
明治維新の光と影:
明治維新は旧弊の打破、「正しい」新秩序の確立、「四民平等」の実現には至らなかった。
即ち、徳川二百年の政治形態は簡単に改革できなかった。日本はこれまで列強との間で関税自主権など多くの不平等条約を締結させられたが、この関係はそのまま幕府と平民との間に姿を変えて長期にわたり存在し、最底辺からの収奪が繰り返された。かような不条理が源となって、民心は政府を離れることが多くなった。
■維新の戦いにて新政府軍が百姓に公約として掲げ、この約束に反して一揆の一因となった年貢の半減令(赤報隊):
赤報隊は西郷隆盛や岩倉具視の支援のもと、慶応4年1月8日(1868年2月1日)に長州、薩摩の両藩を中心に結成し「年貢半減」を宣伝し、旧幕府に反発する民衆の支持を得たが、後日新政府は財政的に年貢半減を勝手な触れ回りで実現は困難としてこれを取消し、赤報隊に偽官軍の烙印(明治?年2月10日付け「回章」)を押した。
■徴兵制(山形陸軍卿:明治6(1873)年1月10日、旧暦5年12月6日、1973年に上奏)の内幕:
これは軍事権益を独占した武士(士族)の特権を奪うと認識され、士族反乱の原因となった。
兵役は官吏ないし支配階級・有産階級を全て免除し、被支配階級・無産階級のみの義務とした。
さらに、(1)戸主、(2)家督を受け継いだ者の孫、(3)独子独孫、(4)父兄に代わって家を治める者、(5)養子、(6)徴兵在役中の者の兄弟を免除した。これは戸ごとに壮丁一人を徴する封建的な賦役の徴集を示している。(中央公論社 日本の歴史第20巻 明治維新 井上清)
兵役は近代化システムや生活を地方に伝える面もあったが、不況下の零細農民には(暴力があっても)農作業よりも楽であり、毎日白米6合を食し、毎晩風呂にも入り、布団に寝ることができ(当時の農民はまだ藁で寝た)休日もあり、給料の支払いも安定して、明治時代には逆に「軍隊に行くと怠け者になる」という評判が立った。
徴兵制はその後大改正され1889年(明治22年)に、男性に国民皆兵が義務づけられている。太平洋戦争の敗戦後、昭和20(1945)年11月17日に廃止された(Wikipedia)。現在は憲法第18条の「苦役」に相当するとして認められていない。
■中央政府高官の高給:維新の中央政府の高官連は別格の高給をはみ、広大な邸宅を得て、大名のごとき生活を営んだ。さらに財政経済担当官僚は、維新戦費の消耗を補うべく、三井組・小野組他の大商業資本と結託して贅を極めた。その反面、士族、特に下級士族の窮迫を、政府は一顧にさえしなかった。
明治元年・2年の高官吏俸給表
官等 | 相当官職名 | 明治元年6月月給 | 明治2年8月年俸 |
一等官 | 輔相・議定・行政官知事 | 700両 | 1200石 |
二等官 | 参与・行政官副知事・府知事 | 600両 | 1000石 |
三等官 | 議政官議長・行政官弁事・行政官・判事・一等県知事など | 500両 | 700石 |
四等官 | 権弁事・権判事・二等県知事など | 300両 | 600石 |
五等官 | 史官・三等県知事など | 150両 | 500石 |
六等官 | 二等県判事・一等訳官 | 50両 | 420石 |
七等官 | 書記・三等県判事 | 30両 | 340石 |
■常に収奪の対象となった階層、農民:
維新は農民の年貢納入先を幕府から政府に代えたのみであり、これが軽減されることはなかった。身分も固定され、職業の選択も許されず、他の職業人との結婚、養子縁組などを除き、耕作地を離れることも許されなかった。
税収の増加を見込める別の職種や産業振興による商業の多様化などの育成もなく、農民はその地方支配者のために米を生む動物でしかなかった。
中国の儒家の始祖であって且つ哲学者であった孔子ですら、その教えの中で、農民はその土地から離すべからずと説いている。かような不平不満は満ち溢れて農民の民心は政府を離れ、職人・商人と組む一揆の勃発は絶えなかった。
■大商業資本の政府支持:
官制度の整備、領地の拡大と共に新政府を強化したのは、この時期の三井・鴻池や大商人の新政府支持の恒久化である。彼らにとり戦乱が早期に収まれば、幕府・朝廷のどちらが勝利しても構わなかった。明治元年12月下旬、三井・島田・小野と京都の巨商は各千両を政府に献金し、明治2年2月21日に新政府の強制による5万両の一時借り入れにも応じた。
新政府の全面的勝利後は、京都・大阪・江戸・横浜を含む日本のすべての貿易港、すなわち商業と貿易の中心地域を完全に支配するに至った。全国および海外との取引を行う巨大商業資本は、否応なしに新政府に頼り、これを支持せざるを得なくなった。
新政府側にも軍資金と政治費用の調達先は、彼ら以外になかった。明治元年中の政府の彼らからの借入金の総額は約384万両であり、同年の政府の年貢・関税収入などである通常歳入額366万両を上回った。また政府は不換紙幣(太政官扎)を発行したが、その額は翌年5月までに4800万両に達した。
彼ら財閥はその財力を政府につぎ込んだが、これに引き合う以上の利潤を手に入れた。政府内の「贈賄」などは、し放題と言われている。ここでは彼ら財閥が日本の大蔵省、中央銀行の役目を果たしていたのである。
■解放令(または身分解放令:明治4年8月28日=1871年10月12日、日本太政官布告第449号)
「穢多(エタ)、非人ノ称ヲ廃シ、身分職業トモ平民同様トス」
この賤民制の廃止は自国制度の影の部分を外国に対して体裁を繕うことと、非課税であった賤民およびその土地を租税対象にに繰り入れる事を目的とした。賤民とは被差別部落民、穢多(えた:皮革加工業者および非人の管理者)、非人(墓守り、放免者、河原者、猿飼等の生業等の総称)、等を言う。この解放令はその後、壬申(じんしん)戸籍(明治5年、1872年)に形を変えて、華族、士族、平民の別なく、国民を居住地単位で登録する最初の全国的な戸籍となった。これで国家が全国民を直接把握し、徴兵、徴税などの行政管理の資料が作成された。
しかし明治政府は部落開放政策を一切取らなかった。部落差別、賤民の呼称は、関西地方を中心として、いまも根強く残っている。解放後は彼らの生活水準は逆に下落した。江戸時代にあった所有地の無税化や、死牛馬取得等の独占権は失われた。
一方で、皇族華族取扱規則が定められ、華族が四民の上に立つことが決まり、爵位制度と新貴族階級が登場した。
大久保利通らは身分制度の撤廃に消極的であった。板垣退助、江藤新平らは「全て人間は生まれながらに自由かつ平等である」と主張し建白書を提出したが、政府はこれを却下した。
註) 壬申戸籍の作成 (明治5年、1872年) によって、日本の当時の総人口が3311万人であることが判明している。
■階級制度のおよぼす刑罰の軽重:
改定律例(かいていりつれい:明治6年太政官布告206号、1873年6月13日付けの刑法典)が7月10日より施行された。律例とは一時的な法令であり、以降に補足・部分的改定が行われる性格を持っている。
この法令においても平民に課せられる刑罰は華士族と異なり、軽い罪を金子の支払いで逃れることは許されていない。また平民であれば懲役刑にされたても、華士族にはより軽い禁固刑があてられた。つまり四民平等は名のみであって、華士族と官吏は特権身分であった。すなわち当時、「人はすべて平等であるという理念」は存在しなかった。
■派閥による政府主導権の独占:
中央政府の指導的地位は長州:木戸孝允、薩摩:大久保利通、土佐:板垣退助、肥前:大隈重信、の派閥官僚により独占された。人は三名集まれば派閥を作ると言われるが、後年、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信は、長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通らによって追い落とされている。
■選挙権:
明治時代の参政権は一定以上の租税納入者のみに与えられた。日本女性の参政権は、明治時代はもとより太平洋戦争が終結するまで、与えられることはなかった。
要するに、明治維新には光の部分も多かったが、それに重なるように影の部分も多かったのである。
参考文献:
-日本の歴史 第20 明治維新 (井上清:中央公論社)-Wikipedia:アレキサンダー・フンボルト「著書コスモス」、ブラックストン、ウエーランド「道徳科学」、エンゲルベルト・ケンペル 「The History of Japan」、ナポレオン法典、A・レイサム・ペリー「政治経済学」、石黒忠悳(ただのり)、身分制度(平民、新平民、卒族、士族、華族、貴族、非人、賤民、穢多[えた])、大儀見元一郎、解放令、士農工商、社会階級、四大、職業選択の自由、自由民権運動、壬申(じんしん)戸籍、赤報隊、日本の選挙、普通選挙法、女性参政権、民法、
-フルベッキ書簡集(高谷道男褊訳:真教出版社)
-ブリタニカ国際大百科事典
-別冊正論 30 明治維新150年、産経新聞社
文責:市川 三世史