日時:令和2年6月17日 13:00~15:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
ナビゲーター:市川三世史
概要:この章の大半はフルベッキ書簡の紹介である。ここで著者グリフィスは、フルベッキ自身が最も重要と信じる「宣教活動」に、彼が極めて多忙なゆえ時間を割けぬという悩みを主に取り上げている。しかし一方、グリフィスの日本不在のこの時期に新政府は戊辰戦争のさなかにあって、その政権の樹立と確立のため最大の艱難辛苦を経験している。またこの時期に生じたもろもろの出来事は、新政府が「日本を統治する合法政府として国際的に認められる」ためにも、且つ日本の歴史的な転換点としても特に記録されるべき事項であるにも拘らず、著者の言及はわずかである。従って、これらを重要な政治的関連過程として取り上げ紹介した。
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-「五か条のご誓文」を境に、国内の統一・近代化政策の優先、外国交易による富国強兵を図り、欧米に比肩する力を備えるべきである、とする新政府の思想が明確にされた。
-日本の生い立ちや、オリジナリティを明確にし、国家統一の意識を国民に周知すべく、また天皇家の神的権威への畏敬を高めるため、「大日本史(水戸学者)」「日本外史(頼山陽)」の著述・編集があった。
-若い日本政府が列強に伍するためには、基本の法制、国家構成、金融、流通、産業、経済、文化、外交、宗教などすべてに経験が不足した。これらの分野についての助言と助力を求めて、門下生の輩出などですでに影響力を及ぼしていたフルベッキ氏を、教育機関の設立のため東京へ招聘することとなった。
-東京での彼の当初の仕事は、帝国憲法の改善、外国との条約の改正、外国への使節派遣の可能性の検討のための顧問とされた。
-明治2年6月11日、国家の近代化のため政府高官からなる使節団の派遣計画を、ブリーフ・スケッチとして大隈重信に提出。これは翌年11月の岩倉使節団の派遣として実現される。
-ブラックストーン(著書:英国法釈義)、ホイートン(著書:万国公法)等の近代法、政治経済学、西欧諸国の憲法などの翻訳に従事。
-翻訳作業に忙殺され、本来の崇高な「伝道」の仕事ができぬとして、悩みを手紙の中で述べている。この思いは切実であり、費用の大半を自己負担してでも、若い新人の派遣を望むと伝道局に訴えている。
-この間、旧幕府および奥羽越列藩同盟との間で、内戦「戊辰戦争」が1868-1869(慶応4年/明治元年-明治2年)年にわたり続いた。これは、榎本武揚5月22日(1869年6月27日)の投降をもって終結した。
注)戊辰戦争とは、船橋、宇都宮城、上野、梁田、箱根、東北(白河口、会津、平潟、北越、秋田、函館)等の各地での戦闘を言う。
内戦の平定をもって、列強は条約による局外中立宣言を解除し、新政府を日本統治の合法政府として国際的に認めている。
-明治天皇の即位(1868年10月23日/明治元年9月8日)により元号は明治となった。
-江戸を東京と、江戸城を皇居と改称した(1868年9月3日/明治元年7月17日)。
-東京の開市・新潟の開港(1869年1月1日/明治元年11月19日)
-新政府は新統治機構として、次の変革を行った:
■版籍奉還(1869/明治2年7月25日):諸藩主からの、土地と人民に対する支配権の朝廷への奉還。
■廃藩置県(1871年7月):廃藩と府県の行政単位への統一。各藩の発行した藩札などを、政府は全て肩代
わりして支払っている。このため、この移行は流血もなく受け入れられた。
-戊辰戦争は農民・商人をも経済的に大きく疲労させた。新政府の年貢半減令の取り消し、不換紙幣の乱発、
米価の高騰等は農民・商人の不満を高め、各地で一揆が勃発した。政府は有能者の中央政府への引き抜き、大地主の政府への結び付け(財閥の台頭)、征韓論への誘導などでこれを切り抜けている。
-徴兵令:武器の近代化により個人技に頼らぬ戦争形態への変化の対応と、列強との比肩、統一国軍設立の必要性から、1873年に陸軍省が国民の義務として発布。戸籍制度を前提としている。
文責:市川