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近藤鎭三/内村良蔵

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日時:令和2年5月28日(木)10:00~12:30
場所:ZOOMに依るオンライン開催
内容:

1.近藤鎭三(やすぞう、ちんぞう)昌綱(まさつな)

1849      嘉永2    5月      直参旗本近藤蔵三郎昌睦の長男として江戸本郷3丁目に出生
1862      文久2                  13歳      蛮書調所、独逸学科(独逸学主任加藤弘蔵が確立)に入学
1865      慶応1                  16歳      開成所教授手伝並出役となる
1868      明治1    10月      19歳      静岡学問所四等教授となり静岡藩に移住

1869      明治2    9月        20歳      大学校中得業生(トクゴウショウ)となる(新政府の官制改革により)

1870      明治3     9月                      文部中助教となる(官制改革により)                            10月                    岩倉使節団派遣の文部大丞理事官田中不二麿の随行を命ぜらる
11月                    横浜出港
1872      明治5    1月        23歳      27日 ドイツ先行を申しつけられる
1873      明治6    2月        24歳      ベルリン公使館在勤の外務省二等書記官生に任命される
1874      明治7    2月        25歳      病のため依願帰国
3月                      文部省八等出仕
1875      明治8    3月        26歳      文部省報告課雇となる             ⇔                                        ※この間ドイツ語教育文献の翻訳に従事1884      明治17  6月        35歳      “司法少書記官に就任。第一局(のちの記録局)勤務
文部省御用掛を兼務し文部省報告局にも勤務(~明治19年)1886      明治19  2月        37歳      在官のまま自費でのドイツ留学を許可される。留学先; ベルリン大学、ハイデルベルク大学、ライプツィヒ大学
1890      明治23  7月        41歳      帰国
1893      明治26  3月        44歳      病のため退官。以後療養に努める。1894      明治27  8月        45歳      東京下谷区谷中岬町の自宅で死去。享年46歳(鈴木・遠藤・近藤)

2.内村良蔵

内村良蔵(うちむら りょうぞう)1849-1910 米沢 文部省九等出仕 22歳
東京外国語学校校長 文部省権大書記官を最後に金貸しに転身
嘉永2年(1849)米沢藩内村慶玄の嫡子として、米沢元籠町に生まれる。

藩校:興譲館で学んだあと、同級の親友でもあり、後に一緒に岩倉使節団に参加することになる平田東助(1849-1925)と共に、班費英学生として慶応3年に福沢諭吉の慶応義塾に入るが、江戸の政情不安で一旦帰郷し、藩が招いた渡辺洪基(やはり、のち岩倉使節団に参加)に英語を学ぶ。文部省が設置されると文部省九等出仕として、岩倉使節団文部理事官随行で参加する。明治6年帰国すると、文部省七等出仕に昇進、外務省から移管した外国語学校の校長となるが、すぐに市川文吉、そして畠山義成に校長は代わって、本省学校課長、そして会計課長となる。明治7年には、文部省六等出仕に昇進、宮城外国語学校長心得へ。 明治9年、文部小丞となって、東京博物館長事務取扱御用掛となる。 明治10年、東京外国語学校、第六代目の校長となる。

明治18年、東京外国語学校が東京商業学校に併合されたのを機に、文部権大書記官(文部省№4に相当)に就任し、本省学務第二局の東京商業学校御用掛となったが、年末には非職となる。内村の非職の原因は不明だが、退官後は本郷で金貸しを営み、駒込に広大な邸宅を構えて、那須と葉山には別荘を所有していたというので、第二の人生は幸せだったようだ。妻は親友・平田東助の妹・末子であったが、長女・政子を生んだ後離婚して、他に嫁している。政子の夫を養子とし・その内村達次郎は、工部大学で機械科を出た後、おそらく日本で最初の、特許弁護士(弁理士)となっている。後妻の歌子との間の娘・シゲは、医師・鳥居春洋に嫁し、その子(内村の孫)は、二人とも医学博士で医者となっている。 明治40年(1910)に病気で死去。享年:63歳。同郷の親友・平田東助はドイツ留学生として岩倉使節団に参加ベルリン大学で政治学、ハイデルブルク大学で国際法、ライブリッヒ大学で商法を学び、伊藤博文とは憲法調査旅行に随行、山県有朋などの長州閥の一角を占めたことが、その後の人生を分けたようにも思う。(小野)

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