日時:令和2年5月21日(木)10:00~12:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
内容
1.中島 永元(なかじま ながもと/ のりもと/ えいげん
1844年8月29日 – 1922年11月10日
明治時代の日本の文部官僚。旧佐賀藩士。一貫して明治前期の中央教育行政にたずさわり、明治中期以降は大学分校、第三高等中学校(いずれも京都大学の前身の1つ)の校長、元老院議官、貴族院議員を歴任した。藩校弘道館、次いで蘭学寮に学んだのち、1865年に副島次郎(種臣)、大隈八太郎(重信)らと長崎に遊学。幕府直轄洋学校済美館で蘭学を研究するかたわら、宣教師グイド・フルベッキから英語を学んだ。
明治4年10月、岩倉使節団理事官として欧米に派遣される文部大丞田中不二麿の随行を命じられ、翌11月に横浜を出港。米国滞在ののち英国の教育調査を担当し、明治6年(1873年)3月に帰国した。帰国後は同年中に文部省五等出仕まで進み、文部権大丞、文部権大書記官を経て明治14年(1881年)6月に文部大書記官に就任。明治18年12月、大阪に新設されて間もない大学分校の校長に転じ、翌年4月には中学校令制定による大学分校の改組にともない第三高等中学校長に更任。その後、明治21年(1888年)6月に元老院議官に転出。大正11年(1922年)11月10日、議員在職のまま東京下渋谷の自邸で死去。享年79。女子師範学校設立御用掛も務め、生涯を教育制度と文部行政確立にささげた人物。
(吉原)
2.山田顕義(やまだ あきよし)
1844‐1892 山口28歳 兵部理事官(陸軍少将)
兵部省理事官として、岩倉使節団に随行する。アメリカで使節団と別れ、原田一道ら兵部省一行と、フィラデルフィア海軍施設視察したあと渡仏。パリを中心に、ベルリン、オランダ、ベルギー、ロシアなど欧州各国で軍制を調査し、ウィーン万博を見て帰国の途につく。明治6年、帰国後の理事官功程に「兵は凶器なり、抵抗の器なり」を提出し、徴兵令の延期を求める。明治18年、第一次伊藤内閣から、黒田内閣、山縣内閣、松方内閣の司法大臣を歴任して、その間、民法、商法、刑法などの編纂事業に携わる一方で、大日本私立衛生会会頭や、関西法律学校、皇典講究所(のち国学院)や日本法律学校(のちの日本大学)の創設に関わる。明治24年の大津事件を契機に司法大臣を辞任。以降、枢密顧問官に就任、生野銀山視察中に卒倒し、49歳で逝去する。(小野)
3.村田新八(むらたしんぱち)
宮内省理事官随行 宮内大丞
薩摩藩 35歳 天保7年11月3日(1836年12月10日)
〜明治10年(1877年)9月24日
西南戦争に散った西郷軍、私学校リーダーの西洋コネクション
旧姓高橋、結婚後に妻の家である村田家の養子となる。薩摩辞書作者の一人である高橋新吉といとこだという。薩摩藩の尊皇志士集団であった精忠組に所属。西郷に心酔していたといわれ、西南戦争で西郷軍と運命を共にした。幕末には寺田屋騒動のグループと関与した嫌疑で西郷は徳之島〜沖永良部島、村田は喜界島へ流刑となる。文久2年6月11日に山川港から出航、元治元年2月28日に帰国なので西郷、村田は薩英戦争に参加していない。村田家の養父・村田十蔵は新八が流刑になった喜界島に赴任経験があった(天保9年)。
【薩長同盟】(慶応2年1月21日(1866年3月7日)@小松帯刀邸流刑から戻った後は主に長州との斥候役となる。龍馬が負傷したため、龍馬の裏書入り薩長同盟書を長州に届けたのは村田、川村純義、木藤市助(薩摩藩アメリカ留学生の一人)らであったという。薩摩アメリカ留学生は薩長同盟締結と共に江戸を去って留学に赴いたことが海舟日記にあり、海舟との関係、留学生との関係が示唆される。また上海香港バンク開設後間もない慶応2年には伊藤博文と上海へ行ったとされている。
【岩倉使節と海外滞在】岩倉使節には宮内省理事官随行として参加。既にアメリカに留学していたいとこの高橋新吉は前田献吉と共に大久保利通の息子(大久保利和と牧野伸顕)の面倒をみていた。使節から肥田と長野を中心とした工部省グループ等がフィラデルフィアに招待され、各所を見学するが、宮内省メンバーの村田も、恐らく高橋がいたためだと考えられるが、フィラデルフィアを訪問している。その後、宮内省メンバーと共にヨーロッパへ先発したが、10月に辞意を伝え、フランスで自費留学していたという。約2年間の海外生活を終え1873年11月の終わりに日本に戻ると既に西郷らは政府を離れて鹿児島に帰っていたため、西郷に会う目的で薩摩へ帰った。西南戦争については多くの記録、小説等があるが、村田の帰国後、西南戦争で副将として死ぬまでのことはよくわかっていないらしい。(村井)