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東久世通禧/原田一道/安藤太郎

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日時:令和2年4月27日(月)10:00~12:00
場所:ZOOMに依るオンライン開催
内容

1.東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)1833‐1912 公家
39歳 宮内庁理事官

急進派の公卿・神戸事件で外交デビュー。実質初代北海道開拓長官。天保4年(1833)、正5位下・東久世通徳の子として京都で生まれる。七卿落ちの一人として、船で長州に逃れる。元治元年(1864)には、長州から大宰府に移るが、その際、東久世は長崎に赴き,公卿として初めて軍艦に乗り、兵器に接する。
慶応4年(1868)、王政復古により復権を果たし、外国事務総督の一人となり、神戸事件(岡山藩兵とフランス水兵の発砲事件)の対応責任且つ天皇親政の代表公卿として公卿初の外交交渉に当たる。明治4年、明治天皇の侍従長に転じて、岩倉使節団に宮内理事官として参加して、各国の儀礼などの調査にあたる。

帰国後は、明治15年(1882)元老院副議長。華族令施行で、明治17年に伯爵に叙される。明治21年に枢密顧問官。明治23年に貴族院副議長。明治25年、枢密院副議長を歴任した。(小野)

2.原田一道(はらだ いちどう)1830-1910 幕臣42
理事官随行兵学大教授
幕末に蘭兵学を学んだ陸軍少将 華麗なる子孫
文政13年(1830)、備中・鴨方藩典医・原田碩斎の長男として生まれる。文久3年(1863)横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発らの遣仏使節団一行に随行して渡欧。兵書の購入に努め、使節団帰国後も滞欧して、オランダ陸軍士官学校に学ぶ。陸軍少将・山田顕義理事官の随行員として岩倉使節団に参加し、フランス、オランダなど欧米各国を巡遊して帰国。明治12年には陸軍局砲兵局長に、同14年には陸軍少将へ進み、東京砲兵工廠長・砲兵工廠提理・砲兵会議議長など陸軍の要職を歴任している。予備役編入後の明治19年(1886)に元老院議官、同23年には貴族院議員に勅選され、同33年には、兵器・軍律刑法研究の功により、男爵となる。明治39年には、勲一等瑞宝章、没後に勲一等旭日大綬章を追贈された。
長男原田豊吉は地質学者で東大教授、その妻・照子は一道がドイツ留学で知り合ったドイツ人武器商人マイケル・ベアの娘。次男の原田直次郎は洋画家。孫の原田熊雄は、元老西園寺公望の秘書官・男爵で、「原田文書」で著名である。熊雄の妹信子は有島生馬の妻。一道は駿河台に3000坪の邸宅を持ち、六棟の日本家屋、洋館を建て、西園寺公望邸をしのぐと言われている。ケーベルはその邸の一角に下宿していた。西園寺公望欧州留学の指南役でもあった。(吉原)

3.安藤太郎(あんどう たろう)1846‐1924 幕臣 26歳
四等書記官外務大録
五稜郭闘士から使節団へ ハワイ総領事 日本禁酒同盟初代会長鳥羽藩医(江戸藩邸詰)・安藤文沢の子として江戸に生まれる。18歳の時に神戸海軍操練所、次いで陸軍伝習所に入り、幕府の騎兵となる。慶応3年、品川沖で二等見習として薩摩の軍艦『翔鳳』と対峙して、砲弾を撃ち込み撃退させている。戊辰戦争では、榎本武揚軍に加わり、五稜郭で降伏し、禁固一年を経験している。解かれて新政府の大蔵省に出仕、次いで外務省に転じ、岩倉使節団には四等書記官の外務大録で随行した。帰国後は、専ら外務畑を歩く。香港副領事を務めた後、明治17年上海総領事。

明治20年にはハワイ総領事として文子夫人と共に赴任する。文子は荒井郁之助(1835‐1909 北海道開拓使学校創設、大島正健、内村鑑三、新渡戸稲造など育て、初代中央気象台長)の妹で、ハワイで太郎と一緒にメソジスト教会で受洗している。
日本に戻ると、外務省初代移民課長、農商務省商工局長を務めた後、官を辞して、キリスト教の宣教と日本禁酒同盟会(1890)を設立してその普及に専念する。そして、自宅を日本メソジスト銀座教会安藤記念講義所として解放し、夫人が亡くなると、その遺志を継ぎ、大正7年(1918)には、元麻布の自宅の一部に安藤記念教会を設立した。(福島)

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