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英書輪読会:「Verbeck of Japan 8章」

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日時:令和2年1月8日(水) 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

①故赤間純一会員を偲ぶ
11月に赤間さんが他界されていたとの悲しい知らせが届いたので、生前の本人希望に沿って、バッハの「6声のリチェルカーレ」を流しながら、アーネスト・サトウのA Diplomat in Japan以来の英書輪読会の仲間で、20周年記念シンポジウムでは渡邊洪基を論じ、記念出版「岩倉使節団の群像」に寄稿するなど活躍された赤間さんを偲んだ。

Ch.ⅧThe Revolution of 1868 (1868年の革命)
この章15ページは、四国艦隊下関砲撃事件直後のパークス着任から戊辰戦争に至る「革命の時代」を描いているが、この段階では欧米列強との交渉も、国内諸勢力の統合も予見不可能だったとする一方、出来事を左右する二人の人物がいたとして、第二代英国公使ハリー・パークス(1865年6月着任)と、無国籍のフルベッキ(1859年11月着任、米国オランダ改革派宣教師)を挙げている。そして「二人とも同時期に中国のギョツラフのギュツラフの教え子だった」としているのは大変興味深い。

ギュツラフ(Karl Gutzlaff)の教え子
ギュツラフは1823年にオランダ海外伝道会からバタビアに派遣されたドイツ人宣教師。その後、中国伝道を志してロンドン伝道会に移籍し1832年に中国に着任した。聖書の中国語訳等の宗教活動に止まらず、香港政庁官吏としても活躍した。また、モリソン号で訪日を企てたり、日本人遭難者の協力を得てヨハネ伝福音書の日本語訳を出版したり等日本への関心も高かった。

このギュツラフが1849年に中国伝道キャンペーンで欧州出張した際に、19歳のフルベッキは生地オランダのザイストの教会でギュツラフの説教を聞き感動している。
また、ロンドンで13歳にして孤児になったパークスはギュツラフ夫人になっていた伯母を頼ってマカオのギュツラフ家に厄介になり、ギュツラフの手引きで初代駐日総領事になるオールコックの下で外交官の道を歩んだ。

教育重視
「五箇条御誓文」第5条で「知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」と謳い、キリスト教国の外国人教師に門戸開放したことは、新文明建設のためオランダに知と技術者を求めたピョートル大帝に勝ると日本の決断を評価している。

邪教禁制
御門の復権と攘夷で権力を得た新政府は、攘夷については妥協余儀なしとする一方、五榜の掲示により、改めて「切支丹邪教禁制」を強化し、浦上の信徒約4000人を諸藩に流配した。この措置は木戸孝允が決断し、大隈重信はパークスの非難を内政干渉と撥ねつけたが、日本で最も影響力をもつ人物になるフルベッキは、道理のみを用い迫害の力に勝利したと主張する。

⑥.日本人留学生の救済
革命によって留学生への送金が途絶えた際、フルベッキの派遣元米国オランダ改革派外国伝道局主事フェリスがアメリカに資金援助団体を組織して日本人留学生を支援した。多くの日本人留学生を受入れ支援してくれたことに対し、岩倉使節団がアメリカ滞在を終えて英国に向かう際に岩倉大使、大久保副使は連名でフェリス宛に感謝状を贈った。

(岩崎洋三記)

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