日時:令和元年11月20日及び12月18日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム
「日本のフルベッキ 第7章(門戸開放)」(大森東亜)
Verbeck of Japan、Ⅶ The Doors Opening , p.115~141
7章では1864年禁門の変と長州征討、四国艦隊下関戦争から、1868年明治維新までの日本の動乱期を幕府および佐賀藩の英語教師として長崎で体験したことを物語る。
来日6年目、禁門の変や4ヵ国(英・仏・蘭・亜)連合艦隊下関砲撃事件を通して日本の政治が天皇を戴いた勢力が政権を担い、敵対者は反逆者となる仕組みを幕府と長州との内戦により知る一方、日本の時代環境が中世の暗い制度下にあり、戦争は悲惨であるが戦いなしで難局を克服するのは困難だと見る。この動乱期にフルベッキが渦中の両サイドの人士から信頼できる人物であることが知られ全国から人々が情報と書籍を求めてやって来る。フルベッキは訪問者に喜んでもらうべく真摯な応接に努める。若き時代に修得した工学技術の知識を提供する一方、来訪者の様々の情報を選別し本国の本部に報告する。フルベッキは外国の文明を知りたいと思う若者に英語およびオランダ語のほか医学を除き、数学、測量、物理学、化学、兵学等を教え、当時、技術者で語学ができる者が大変役立つことを自覚する。時に肥後藩からの蒸気船購入の斡旋に応えるとともに各藩からの招きも受ける。長崎奉行の設置した長崎洋学所の英語教師委嘱を受け、フルベッキは自活する宣教師となる。横井小楠の甥2人の留学斡旋を手始めに多数の留学生を米改革派教会を通してアメリカに送り出す。また、佐賀藩士大隈重信や副島種臣らには新約聖書とアメリカ憲法を教える。
とりわけ漢訳聖書をもとに佐賀藩家老の真剣な聖書知識の求めに3年も応じた後、藩士2名とキリスト教受洗の申し出があり、フルベッキは改革派教会の方式に従って洗礼を行い本来の宣教師としての役割を初めて果す。この間フルベッキの派遣母体、オランダ改革派教会がアメリカ改革派教会に名称変更したことへの賛意と日本のカトリック活動への所感と併せ、長崎では宣教活動を表立って行えなかった実情が語られる。また門下生の僧侶が江戸でキリスト教誹謗のための小冊子を刊行したことに大変苦慮した。
長崎での活動を振り返り、身の危険と怖れがなかった訳ではなく、自身家族の安全のため上海への一時避難もあり、一般の暴動の恐れのある時は拳銃に弾丸を装填したが、自身は個人的暴力の危険はなかったと語る。こんご適切に仕事をしてゆくためには人々の信頼を得ることと日本語を習得することが肝要なほか、人々との交際ではキリスト信徒の義務をはたしていくことと親切と寛容を示すことが求められていると記す。
文責:大森東亜