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久米邦武/安場保和/中山信彬/野村靖/内海忠勝

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日時:令和2年1月27日 13:30~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム

1.久米邦武(発表者:小野)
エンサイクロペディア的見聞録である「米欧回覧実記」100巻を書いた著作の人であり佐賀の大教養人であった、藩校弘道館に学び昌平黌で古賀謹一郎にも学んだ。閑叟の蘭癖と実証主義的科学精神が久米を鍛えた。 回覧中は、畠山と久米は、岩倉、大久保、木戸、山口の六人と何時も一緒だった。欧米回覧の体験が歴史家への意識を育み「神道は祭天の古俗」筆禍事件を起こしたとも言える。

2.安場保和(発表者:芳野)
米国から先に帰った人物として注目される。英語も判らずこれ以上長居して国費を乱費するに忍びないと、岩倉に「我が国拓殖の道」を志すと言い残し、帰国すると福島県令、愛知県令、福島県令、北海道庁長官と地方行政に力を入れる。彼は、人材登用にも才能を発揮、のちに娘婿となる後藤新平を始め、斎藤実(後の首相)や三大疎水の一つ安積疎水開発をのちに主導する中條政恒(福島県課長)などを育成して日本の近代国家の基礎整備に多大な功績を残した人物である。硬骨漢で豪快無私な人柄は、もう一人の地方行政官として評判の悪かった三島通庸と対極をなす。

3.中山信彬(発表者;吉原)
佐賀藩士の彼は蕃学稽古所で大隈重信達と学んだ。明治3年兵庫県知事に転任した後岩倉 大使随行として日本を出発し、米国、欧州を歴訪し帰国後、外務省五等出仕となる。
理事功程「中山信彬報告」を提出以後、外務権大丞、兼二等法制官を務めた。五代友厚が渋沢に依頼して第一銀行にいた中山を1878年7月19日に大阪株式取引所頭取として迎えた。中山は渋沢の子分だったので岩倉使節団に参加したのも大隈か渋沢の推薦によるものと考えられる。

4.野村靖(発表者:栗明)
1842年(天保13年)長州藩萩の下級武士(足軽)入江嘉伝次の三男として生まれる。吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷運動に傾倒、維新後は藩政に参画、後に政府に出仕し、宮内太丞を拝命、外務大書記の時、岩倉使節団に加わり欧米視察する。
政界引退後は『留魂録』など松陰の書物を通じて、松陰思想の普及に努めた。また、野村は明治天皇の娘、冨美宮・泰宮両親王の養育係を務め、鎌倉の御用邸にて66歳で没す。

5.内海忠勝(発表者:小野)
吉敷毛利家の家臣・吉田治助の四男で山口吉敷に生まれ、大村益次郎塾で、蘭学、兵学を学ぶ。その後、伊藤博文に認められて、岩倉使節団に参加し、西洋文明への目を開かれて、帰国後、七つの県知事を歴任して、内務大臣、男爵まで昇進を重ねる。長州閥にうまく乗っての人生だったが、時代の潮流を生かし、最後まで明治維新実現への初心を貫いて、彼なりに時代を切り開いた人物だったのではないだろうか。

(文責:吉原重和)

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