日時:令和元年10月8日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館 4Fセミナールーム
内容:Ch.Ⅵ Political Appheaval (政治の激動)pp.100-114を読んだ。
フルベッキが長崎に着任したのは、ハリスとの日米修好通商条約調印1年後の1859年11月だったが、条約の無勅許調印に端を発して日本の政治は激動していた。調印4カ月後には井伊大老が桜田門外で暗殺され、その後もハリスの通訳ヒュースケンの暗殺、英国公使館襲撃(第二次東禅寺事件)、生麦事件、薩英戦争と混乱が続いた。
長崎には遅まきながら居留地が整備されていたが、フルベッキは居留地外に住み続けていたため、懇意にしていた長崎港警備担当の佐賀藩家老村田若狭守から避難を勧告され、まずは居留地へ、その後上海へと避難した。
同地に4カ月滞在の間、フルベッキは米国長老教会印刷所美華書館のガンブルから活版印刷を学んだ。これが後に長崎で本木昌造がガンブルから活字鋳造や組版の講習を受け、日本における西洋活版術の始まりとなった。フルベッキは美華書館の出版する漢訳西洋書物の輸入頒布の役も担っていた。
なお、村田若狭守は聖書に大変興味を持ち、義弟綾部幸熙と家来本木昌造にフルベッキに差し向け聖書を学ばせた。村田と綾部は1866年5月にフルベッキから洗礼を受けたが、前年に横浜でバラから洗礼を受け日本最初の受洗者になった矢野隆山に次ぐものだった。(岩崎洋三記)