日時:令和元年6月12日 15:00~17:00
場所:日比谷図書文化館4F セミナールーム
内容:Ch.ⅢIn the Land of Opportunity(希望の国で)
ナヴィゲーター:大森東亜
この章は、1852年9月オランダをからアメリカに移住し、7年後米国オランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれ、1859年5月、ニューヨークを出航し、同年11月上海を経由して長崎に着くまでの物語である。
フルベッキをアメリカに向かわせたのは、ニューヨーク在住のモラビア派*牧師の義弟ヴァン・デュ-ルの勧めだった。実は義弟自身も、先んじてアメリカのウィスコンシン州グリーンベイにモデルタウンを開発していた同派宣教師タンク師に招かれて渡米していたこともあり、フルベッキはとりあえずその鋳物工場で約1年働くことになった。この時フルベッキは「立派なアメリカ人になる」決意をし、名前をフェルビークから、アメリカ人が呼びやすいヴァ―ベックに改めた。
*モラビア派は、15世紀のチェコの宗教改革者でプラハ大学学長だったヤン・フスに端を発するモラビア兄弟団というプロテスタント教団で、フルベッキの生地オランダのザイストに拠点が移されており、フルベッキも少年期に系統の学校に、教会に通っていた。
その後、アメリカをもっと知りたいと思ったフルベッキは、アーカンソー州ヘレナに移り、土木技師として働くが、奴隷たちが同地の綿花畑で過酷な労働を強いられているのを目にして失望し、奴隷解放論者の説教を聞くために遠路を通っていた。そして、瀕死の大病(コレラと推定)を患ったときに、回復後は聖職者になることを決意する。回復後、義弟の薦めもあって、一端グリーンベイに戻った後、ニューヨーク州オーバーンの神学校で3年間学ぶことにした。
1858年に日米修好通商条約が締結され、翌年には米国宣教師の日本駐在が可能となった時、米国オランダ改革派は最も積極的に、3人の宣教師を日本に派遣することにした。まず選ばれたのは、中国伝道経験の長いブラウン、次いで医師のシモンズが選ばれ、3人目に「アメリカ人化したオランダ人」として神学校を卒業したばかりのフルベッキが選ばれた。フルベッキは米国滞在中にオランダ国籍を失っていたため、日本赴任に際してアメリカの市民権を申請したが叶わず、無国籍での来日になった。なお、フルベッキは神学校時代に、ブラウン牧師の教会でドイツ人向け礼拝を手伝ったいた時に知り合ったマリア・マ二ヨンと赴任直前に結婚して、日本に帯同した。(大森東亜記)