日時:令和元年6月15日(土)13:30~16:30
場所:国際文化会館 401号室
演題:「Flawed Giant-Lyndon Johnson”欠陥のある巨人“リンドン大統領」
講師:大井孝氏(東京学芸大学名誉教授)
大井氏が6月度定例会のテーマに“リンドン・ジョンソン大統領”を選ばれた理由は氏がフルブライト留学生としてコロンビア大学で政治学を学ばれていた時期とジョンソン大統領の任期中と重なって、リアルタイムでジョンソン大統領の“成功と失敗”を身近に見聞きしていて、記憶にも未だ鮮明に残っている事にもよるとのこと。
ジョンソンと言えば翌年に控えた大統領選挙の為ケネデイ大統領の再選をサポートすべく遊説のため訪れた1963年11月22日テキサス州ダラスで暗殺されたケネデイ大統領の後任として副大統領から横滑り大統領となったことで有名である。他方でジョンソンは、アメリカ人にとり悪夢ともいうべきあのヴエトナム戦争を拡大した大統領との悪印象が私達日本人には強く残っている。今回の講演はそのリンドン・ジョンソンがどのようにしてアメリカ合衆国の副大統領の地位に上り詰めて行ったかを、彼の生い立ちについて語ることから始められた。
ジョンソンは1908年。テキサス州のストーンウオールで生まれる。彼の両親は貧しい地域で農場を経営していて一時期父親は州議会議員をしていたが事業にも失敗、多額の借金を抱えてリンドン少年は幼少時代から貧困生活を強いられる。この経験が後に彼に、黒人やメキシコ人貧困者救済を志向させる。彼の生家には水道も電気も無く、彼の通った小学校は全校で一教室、教員一名のみ。高校通学にはロバに乘って片道三マイル。1924年高校卒業後は大学入学は落第で一時道路建設作業員などに従事。飲酒と喧嘩で逮捕歴もあり、相当な悪であった。19歳で改心し南西テキサス州立教員養成大学に入学。在学中に最貧困地区児童の小学校代用教員を経験。その後州議会で5期務めた父親の縁故を借りて1931年テキサス州出身の連邦下院議員の部下となり、ワシントンに移住。1933年3月4日FDRの政権発足。ニューデイール政策の柱の一つのNational Youth Administrationのテキサス州担当部長となる。
この頃からジョンソンは政治家の道に進む。1934年地元出身の富裕家庭の娘Landy Birdと結婚、妻の支援を受けながら1937年、28歳で連邦下院議員に当選,地元の貧困地域に電力供給やその他の 改善策を実施し、徐々に知名度が上がってゆく。1941年上院議員選挙に出馬希望するが民主党内の対立で失敗。下院議員を続ける。日米開戦後FDRが彼を下院議員のまま海軍予備役将校に任命、太平洋地域の戦況視察委員となる。幸運にも恵まれ生き残り、結果銀星章を授与される。
戦後、1948年テキサス州選出の連邦上院議員に選出され、二年後には民主党の院内副総務になり、1955年には上院の民主党院内総務floor leaderとなる。1957年アイゼンハワー政権下で“民権法”の成立に尽力。1960年の大統領選挙戦ではカトリックのケネデイは共和党候補者の現副大統領ニクソンと大接戦。ケネデイはプロテスタントのジョンソンを副大統領候補とすることで、南部諸州の支持を期待した。当時から大統領選挙では南部諸州が鍵を握って居り、結果として南部出身で、南部での知名度の高いジョンソンを副大統領として味方に引き入れたケネデイがニクソンに僅差で勝利しケネデイ政権が発足。
ジョンソンはケネデイ兄弟には田舎者と軽蔑され政権中枢には入れられなかったが、ジョンソンの方も上院時代のケネデイをさしたる実績もなく軽視していた。ケネデイの下でジョンソン副大統領は黒人青年の就職機会の拡大のために設置されたCEEO(Committee on Equal Employment Opportunity)の責任者となる。ケネデイ兄弟は1964年の大統領選挙ではジョンソンを副大統領候補として指名しない気配であった。
そしてケネデイ大統領は1963年11月22日テキサス州ダラスであの“悲劇”に遭遇し、ジョンソンは予期せぬ“大統領への昇格”となり、ジョンソン政権が誕生する。
ジョンソン大統領が先ず手掛けた政策はケネデイが暗殺前の10月に公共施設、公立学校、雇用での人種差別を禁止する法律案を下院の法務委員会で通過させるところまで進めていた、それらの人種差別撤廃と貧困対策の一連の立法に取り組む。
ジョンソン大統領が手掛けた政策は以下の通り。
“1964年公民権法案”に署名、“Great Society”を目指すべきことを宣言、”War on Poverty”対策と黒人たちの失業対策の一環として“Economic Opportunity Act”を議会に提案
その他、自然環境保護、消費者保護、新移民法、Medicaid , Medicare,など。
1964年11月ジョンソンは大統領選挙で当選。議会の議席確保でも民主党にとってはFDR時代の1936年以来の大勝利であった。ジョンソンはこの選挙結果に自信を抱いて更にGreat Societyの施策を拡大しようと望み、“教育・医療保険・天然資源保護・農業対策”の四項目の政策、中でも教育政策を最優先、貧困児童の教育を重視した。その後の二年間にジョンソンは200個の重要法案を議会に提出し、その内181を成立させた。その他、“新投票権法”も画期的な法案であったことを忘れてはならない。当時は米国経済が好調で五年連続でGDPが上昇し、1964年には減税も可能であった。
この様な輝かし実績の反面、ジョンソンはそのベトナム戦争対策の泥沼に陥った。1954年7月のジュネーヴ協定により、ベトナムからフランスは撤退した後でも米国はこの協定に反対し、南ベトナムの傀儡政権を支持し続けた。
アイゼンハワー、ケネデイの下では軍事顧問団の員数が増大し、引き継いだジョンソンも1964年に起きた「トンキン湾事件」を契機に本格介入の道を選び、米国の戦闘部隊も段階的に総計55万名以上になり、戦費も増大、1968年には第二次大戦以来最高額となる219億ドルの支出であった。連邦予算の75%近くが戦費または戦争関連の支出となり、教育・健康・福祉関連予算は12.2%となった。
上述の一連のジョンソンによる画期的な国内政策の実現の背景には内政面での進歩的な政策の実現との交換条件によるベトナム戦争の拡大があった。また米ソ冷戦下での「ドミノ理論」がジョンソン政権の「ベスト&ブライテスト」の思考を捉えていた事も事実である。
ベトナム戦争による戦死者も1968年には12,000人に達し、全米に反戦運動が巻き起こりジョンソン政権に対してはベトナム戦争への対応のまずさから、国民からの信頼感も失われて行った。結局、悪化したベトナム戦争の難問を抱えて、1968年3月31日にジョンソンは同年の大統領選に出馬しないことを宣言した。民主党の大統領候補者はロバート・ケネデイが有力視されていたが、ロバートが6月6日に暗殺され、結果副大統領のハンフリーが民主党の大統領候補となるが11月の選挙では僅差で共和党の元副大統領ニクソンに敗れた。
大井氏はジョンソンに対する二人の著名人の言葉を紹介することでこの講演を締めくくられた。その一部をご紹介します。
*ジョンソンの伝記作家Robert Dallek (1998年)
「・・・・あのジョンソンは少なくても一つの異論の余地のない勝利を内政上で挙げた。彼は南部諸州を国の経済・政治の主流の中に組み込むことに大きな役割を果たした。・・・・・南部の人種差別の撤廃は南部が米国の全国社会に再編入される事を意味していた。1960年以来、あの地域が享受してきた繁栄と過去六代の大統領の内、ジミーカーター、ジョージ・ブッシュ、ビル・クリントンの三名が南部出身であることがその点を示している。・・・・・・
ベトナムは大きな失敗であった。それは米国の歴史の中で最悪の外交政策であった。彼の大統領職は偉大な業績とすさまじい失敗、永続的な利得と忘れがたい損失、の物語であった。
・・・・1960年代の激情が鎮静化するとき、ジョンソンはおそらく、当時の米国の偉大さと限界とを忠実に反映した一人の大統領として想起されるだろう・・・・彼の成功と失敗と彼の勝利と悲劇の故に、注目すべき人物として。」
*米国ヴァンダービルト大学 歴史学教授 ジェファーソン・コウイは
「・・・・・1964年5月の演説でジョンソンは“我々のすべての人々に一つの豊かさの制度を作る為にあの一世紀にわたる努力が成功した”と宣言した。・・・・それは一つの豊かな時代に向かう一つのヴイジョンであったが、それはFDRの行った、基本的・物質的安定の保障の協調とは異なるものであった。しかしジョンソンの政策は国民の全般的な生活向上を目的とする様々な社会的・文化的改善の雪崩現象を実際に引き起こした」
(文責:畠山朔男)