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『もう一つの明治維新はあり得たのか―徳川慶喜を素材として』

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日時:2019.2.26 13:30~14:30
場所:国際文化会館 404号室
参加者:16名
プレゼンター:小野博正(歴史部会幹事)

昨年のNHK大河ドラマ『西郷どん』の徳川慶喜の悪役ぶりに義憤を覚え、慶喜の名誉挽回にと、雄藩による明治維新でなかったら、どんな明治の道があったかを考えてみた。保阪正康氏によれば、4つの可能性があった。①帝国主義的国家(これが大日本帝国憲法となった現実の歴史)②帝国主義的道義国家③自由民権国家④連邦制国家である。

明治新政府が天皇大権の帝国主義国家を選んだのには必然性があった。王政復古で幕府を朝敵にした時から、国民国家の実現には、天皇を中心に置くしか道はなかった。岩倉使節団はアメリカで共和制国家をみたが、これは幕藩体制を思わせる形態と思えたろう。イギリスの立憲君主制は理想的にみえたが、時あたかもヴィクトリア女王の権勢が議会に削がれかけていて、これでは天皇の地位がいつ弱められるかわからない不安があった。

フランスの王政と共和制の揺れ動きは不安定だ。一方普仏戦争でフランスを破ったドイツは、ビスマルクとモルトケを従えて、ヴィルヘルム一世皇帝の遅れてきた帝国主義国家は産業革命にも成功して盤石であった。明治6年と明治14年の二つの政変を経て、ドイツ模倣国家への道は確定した。士族の反乱などを恐れて、讒謗律、集会条例、保安条例などで自由民権運動の広がりを徹底的につぶしたので、自由民権国家はあり得ない。

帝国主義的道義国家は、明治天皇がイギリスの立憲君主制に一時期共感していたので可能性はあったがこれも日の目を見ることはなかった。残る、連邦制共和国国家は、江戸幕府がそのまま近代化に進んだとき、その可能性が高かった。大政奉還のとき、慶喜は選挙による雄藩とその家臣による二院制議会と、大統領制を頭において西周や津田真道らに検討させていた。これが実現していたら、緩やかな近代化もあり得た。

最後に、慶喜である。味方になるべき四侯会議で、四侯を大バカ者呼ばわりして敵に回し、思想的倒幕派であった勝海舟を、幕府最後の終幕に起用したのはなぜか。慶喜自身が、倒幕(終幕)を当初から考えていたとすれば、すべてが腑に落ちる。彼は側近に、300年の幕府もあと一年も持つまいと語っており、旗本が戦うことを忘れて居ることを嘆いていた。将軍職辞退も恐らく本気だったのではないか。何せ、水戸家家訓は、将軍家に弓を引いても、朝廷には弓を引くなである。彼の血には、武士と公卿の血が流れている。徹底恭順して、明治になってからも、全く政治を語らず、己を語らず。只ひたすらに趣味の世界に没頭したのは、無言のうちに、そのことを語ってはいまいか。これは歴史専門家が決して語らぬ見方である。(文責:小野博正)

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