日時:2018年10月15日 13時30分~16時30分
場所:国際文化会館 4階会議室
演題:「鍋島閑叟(直正)と佐賀7藩士」
講師:大森東亜(会員)
今回のテーマは、当会で今秋、幕末維新と関係の深い佐賀への歴史旅行が計画されているため取り上げられた。はじめに佐賀藩と佐賀県の地理的特性、歴史的変遷と鍋島氏登場、さらに廃藩置県から佐賀の乱を経て、佐賀県誕生(平成29年人口83万人)までを辿る。
鍋島閑叟は、1814年九代藩主斉直の子として江戸桜田屋敷で誕生し、十七歳で家督を継ぐまで江戸で過ごす。従兄の島津斉彬など縁戚関係は多面に亘る。家督相続時、藩財政は窮乏下にあり、諸役の倹約令、年貢徴収改革ほか磁器づくり、石炭採掘など産業振興に努める一方、借財整理にも取組み、閑叟は「算盤大名」の異名もとる。佐賀城二の丸が焼失するも正室の実家(将軍家)からの城再建費支援などもあり、藩財政を持直す。
佐賀藩は福岡藩とともに長﨑御番を交代で務める。1808年フェートン号事件がおきる。英船が蘭船を装って長崎港に不法侵入し薪水等を求めた事件である。佐賀藩と長崎奉行が対応不適切とされ、長崎奉行関係者が切腹したほか、閑叟の父藩主斉直は謹慎処分される。この出来事もあって閑叟は、長崎御番のため砲台整備、西洋砲術導入、海軍育成、軍艦製造に終生尽力する。閑叟自らオランダ艦やイギリス艦に乗船し、艦船購入のほか蒸気機関工場の設計図などもオランダに求めている。
砲台築造、反射炉建築のため伊豆江川太郎左衛門のもとへ本島藤太夫らを派遣し研究させる。3年がかりで国産初の反射炉をつくり、洋式大砲を鋳造し、幕府の注文も受ける。
事業完成を評価され幕府からの借入10万両は免除される。完成まで度重なる失敗もあったが、閑叟は「西欧人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり、挫けずますます研究せよ」と励ましたという。幕府の長崎海軍伝習所閉鎖後、閑叟は佐野常民の建言を受け、藩に三重津海軍所を開設し、航海、造船等のほか、国産初の蒸気船も完成させる。
幕末から維新にかけて閑叟は旗色を鮮明にせず、「肥前の妖怪」という小説を司馬遼太郎に書かせる。しかし、その背景に慶喜の大政奉還と引換えに朝廷を戴き、内戦を避け、外国から日本を守るという強い思いがあったと小説『かちがらす』(植松三十里)では記す。いずれにしろ閑叟を中心とする佐賀藩は幕末維新期、大砲と海軍により維新政府成立に寄与する。幕末維新期に活躍した佐賀藩士は閑叟を含め7賢人が挙げられているが、『米欧回覧実記』の久米邦武もこれら賢人に加えたい。佐賀藩士には現代に至る社会制度に地道に寄与した人物が少なくない。それぞれ特記事項を記すと、大隈重信は政党政治、議会政治に貢献し、早稲田大学を創設する。久米は「神道は祭天の古俗」とする論文を書き、帝国大学教授を追われるが、日本史学実証研究に従事する。佐野常民は火器研究後、パリ博覧会に赴くほか、日本赤十字を創設する。副島種臣はペルー船「マリア・ルーズ号」事件で、清国人奴隷を解放するなど日本外交のパイオニアとなる。大木喬任は江藤新平とともに東京遷都を建策するとともに、初期東京府知事となり東京の治安と活性化、さらに文部行政、民法編纂に貢献する。江藤は学制、刑法等司法制度整備にあたる。島義勇は箱館戦争に従事する一方、閑叟の助言をもとに札幌の条里制、北海道開発にあたっている。。
これら佐賀藩士たちの活躍には藩校弘道館の果たした役割が大きい。弘道館は1781年に創設され、92年にわたり独自の教育活動を展開し、時に約千人も学んだといわれる。弘道館の優秀な佐賀藩士は江戸期の最高の学問所昌平黌に学び、幕末25年間で昌平黌の学生505人のうち40人おり、仙台藩、薩摩藩の各21人に比較して抜きんでたとの調べもある。岩倉具視も佐賀藩の教育を評価して子弟を佐賀藩に委託している。
文責:大森東亜