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特別寄稿:伊藤満洲雄

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伊藤さんは、ブルーベル・インフォーメーション・サービセス社長。伊藤博文の一番若いお孫さんです。

このページは、伊藤さんから泉三郎先生への特別寄稿文です。

PATEK PHILIPPE

PATEK FHILIPE GENEVAと銘の入った懐中時計をそばに置いて、この一文を書いている。ネジを巻いてやると、実直に一日中カチカチと時を刻む。はっきりとは分らないが、製作されてからもう100年ほど経っているはずだ。彼女(フランス語のMontreは女性名詞)の後半生50年は、私の手許から離れたことが無かった。そろそろ別れてもいい時期に来た様な気がする。

思えばこの時計とはいろんな関わりがあった。昭和20年秋に、私は疎開先の滋賀県から東京の家に帰ってきた。誠に幸運にもわが家は戦災を免れた(向かいと隣の家は焼けた)。従ってこの時計も生き残ったのである。父は昔から2個の時計を非常に大切にしていた。一つはこのPatekで、もう一つはZENITH。満鉄アジア号の車掌が持たされていた時計ということは、世界一正確に(手頃な値段で)、時を刻む時計だそうだった。PATEKに就いては父は何の説明もせず、ただ大事な宝物だと言って時々出しては眺めていた。

戦後2、3年経った頃だったか、その宝物が無くなってしまった。父は一生懸命にあちこち探していたが見つからず、とうとう諦めたみたいだった。春が来て、夏・秋が過ぎて、又寒いシーズンが到来したので私(当時中学生)は炬燵用の机を出し、八畳間の畳を一枚外して炬燵の灰をふるっていた。一冬の間にはいろんな物が灰の中に落っこちている。その中に父が昨冬探していた時計があった。不細工な代用金属に包まれていて、何がそんなに大切なんだろう、ちょっとからかってやろうと思った。2、3日自分の机の中に暖めて置いて、さりげなく「パパのなくした物、見つかったら僕にくれる?」と聞いた。父は意味が分らないのでちょっと戸惑ったが、少し考えてから「あげるよ」と答えた。三男坊が兄貴達を差し置いて、PATEKを手に入れたのである。

かと言って父の抽出しから、炬燵の灰を経て、私の抽出しに引越しただけのことで、なんということもなく10数年が経って行った。私は学校を卒業して住友金属に入社し、配属された工場(伸銅所)が独立して住友軽金属となって4年目に、ジュネーブの経営学校で一年間勉強してくる様に命じられた。父はジュネーブに行くのなら、PATEKの本社へ行って、もう一度元の金時計にして来る様強くすすめた。

昭和38年の夏、羽田から、生まれて初めて飛行機(スイスエアー)に乗ったが、その時点ですでに、たった一人の日本人乗客だったなど今の若い人達には到底信じられないだろう。ホンコン、マニラ、バンコク、カルカッタ、カラチ、カイロを経て26時間かけてジュネーブに到着。間もなく学校が始まって、最初のうちは時計どころではなかった。(世界14ヶ国から29人が集まり一年間徹底的に集合教育を受ける。)ただジュネーブの中心街へ出かけた時に、PATEK PHILIPPEの本社を見かけて、あんまり立派過ぎて何か近付き難い建物だなと感じたことは未だに記憶している。

勉強を数ヶ月やり、親しい友人も次第に増えて来た頃、スイス人のセッピーに時計の話をした。幸運なことにセッピーはパテックのセールスマネジャーと仲が好いという。かくしてセッピーの車に乗ってこの不格好な時計を見せにでかけたのである。立派な個室に通された後、デースター(DAESTER)氏とセッピーは「やーどうだい、最近は?」と言った調子で、こちらもおかげでリラックスして話することが出来た。第二次大戦中に、元の金皮を政府に供出したこと、それでもう一度金にもどしたいが、どのくらい費用がかかるのか等。デースター氏はその時計を開けて見て、これは非常にいい時計だ。ちょっとよく調べて来るから待っていてほしいと言って出て行った。しばらく経って帰って来た彼は、何故かセッピーに「ちょっと」と声をかけて呼び出し、私だけ部屋に残された。やがて二人は戻り、デースター氏は「この時計は・・年・・月にベルギーの・・氏に売ったものに間違いありません。金皮に戻すことを強くお薦めします。最高の品質でコストは押えておつくりします。」という。ここまで言われては、もし高ければ止めておきますとも言えず、お願いした。金額は聞かなかった。

2ヵ月くらい経ったか、出来たという連絡があって受け取りに行った。相当かかるだろうと予測して、直前に銀行に行き、お金を用意した。時計の皮は835スイスフラン。金の鎖を幾つも見せられ、気に入ったのを240スイスフランで買った(日記を参照したところ、196423日である。当時一ヶ月の下宿代が朝飯付きで200300位か、私の月給も換算するとそれ位だったように記憶する)。当時の貧乏留学生にとっては、とんでもない高い買物だったのだが、一見してホレボレする美しさだった。それれ以来可愛がって、時々我家の愛猫にじゃれさせる以外に、他人にさわらせないで来た。

彼女が生まれ変わってから、34年経った。セッピーの友人だったPATEKのデースター氏は早く亡くなったが、ジュネーブで一年間苦楽を共にした勉強仲間のうち数家族は、2年に一度世界の何処かで集まることにしている。19973月には、マイアミからカリブ海を一週間クルーズした。その間、あるディナーの席上で、セッピーがPATEKの思い出話を他の友人達に始めたのである。セッピーは、私が時計の由来を元々知っていると信じきって話したのだが、実は全く初耳だった。デースター氏は部屋からセッピーだけを呼び出し、「この時計は盗まれたものに違いない。何故ならこれは・・氏という王室御用達の人に売ったもので、その辺の人間が持っているものではない。」そこでセッピーは「マスオのお祖父さんは、日本の総理大臣だったんだヨ」といったら、「あー、それなら分った。」とデースター氏は言ったのだそうだ。道理で彼が席に戻って来てから、最高級の金皮を薦めた訳だ。

美しく出来上がった彼女を受け取った日、デースター氏はPATEK社のケースに展示されている数々の時計を見せてくれたが、「貴方の時計はここにあるどの時計よりも上等です。」と言ったのだ。私は父が若い時に買った(1919年第一次大戦講和会議の随員としてパリやジュネーブに行った)ものと思いこんでいたので、ヘンなこと言うなーと思ったのだが、去年その時、初めて意味が分ったのである。

1998年夏 伊藤満洲雄記